藺生村(読み)いうむら

日本歴史地名大系 「藺生村」の解説

藺生村
いうむら

[現在地名]村大字藺生いゆう

小山戸おやまと村の西に位置する。初瀬はせ川の発源地。

慶長郷帳には「いふ村」と記し、村高は二四七・三三石。元和・寛永両郷帳には「いう村」とみえる。慶長から元和元年(一六一五)にかけて旗本筒井正次(郡山城番)領。のち幕府領(代官間宮三郎右衛門)、同五年津藩(藤堂高虎)領、寛文九年(一六六九)久居藩(藤堂高通)領となる(藤影記)。久居藩時代の村高は二四七・三六石。「宗国史」に、戸数三八、人口一五四、祠に九頭明神・竜王社、寺に青竜寺・新坊・清光寺、馬一、牛二とみえる。


藺生村
ゆうむら

[現在地名]今津町藺生

石田いしだ川が山峡から抜け出た所に位置し、東は上弘部かみひろべ村。もと西野にしの村と称し、板倉いたくら山の東麓にあったが、永正(一五〇四―二一)頃上弘部村の内であった現在地に移ったという。天正一五年(一五八七)九月の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)に「上弘部ゆふ村」とあり、高五三四石余。もと上弘部村の内で、慶長七年(一六〇二)の上弘部村の検地帳(高島郡誌)の高六三五石余のうち、当村分は二三三石余であるという。寛永石高帳では高二四七石余、うち幕府領一〇一石余・大溝藩領一四六石余。慶安高辻帳では幕府領は田方四一石余・畑方一五石余、永荒四四石余、大溝藩領は田方八八石余・畑方四七石余、永荒一〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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