都
村
つづきむら
[現在地名]三ヶ日町都筑
猪鼻湖と浜名湖に挟まれた大崎半島の基部に位置し、北は駒場村など。天平一二年(七四〇)一一月二〇日の遠江国浜名郡輸租帳(正倉院文書)にみえる津築郷の遺称地とされ、中世には津々木郷に含まれていた。慶長九年(一六〇四)七月の検地帳写(大野家文書)が残る。正保郷帳に「都筑村」とみえ、田方三八四石余・畑方一八五石余、うち幕府領一九七石余・旗本気賀近藤領三七二石余、ほかに広福寺(現曹洞宗)領二石がある。
都
村
つげむら
面積:四四・一三平方キロ
大和高原の中南部を占める。標高四〇〇―五〇〇メートル。布目川と深江川が村内を北流する。南部は都
盆地を中心に比較的平坦で都介野高原とよばれ、南端は笠間川の上流域をなす。都介野岳(六三二メートル)が盆地の南にあり、北端の神野山(六一八・八メートル)が山添村境をなす。東と南の宇陀郡境には壇の山(六一〇・五メートル)・額井岳(八一六メートル)・貝ヶ平山(八二二メートル)などがある。西は桜井・天理・奈良の三市に接する。
都介野高原は古来東山中の文化・産業の中心地。「友田白石碁盤の表、何故に裏毛が出来ぬやら」と里謡にうたわれるように、冬は冷涼で二毛作は不可能であるが、冷涼気候を利用して、小倉山を中心に長く天然氷豆腐の製造が行われた。
都村
みやこむら
[現在地名]仁淀村別枝 都
別枝村の南、鳥形山西麓に位置する。天正一七年(一五八九)の別符山大平名別枝名地検帳に別枝名内の小村として「都ノ村」がみえ、「ミヤコヤシキ」「宮古」の小地名が記される。江戸時代には別枝村の枝村として同村庄屋支配下にあり地組頭が置かれていたが、郷帳類では独立して高付される。元禄地払帳によると本田高六石余で深尾若狭知行、寛保郷帳には戸数九、人口五一、馬三、猟銃五とある。
都
村
つげむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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