山槐記
さんかいき
平安末・鎌倉初頭の公卿(くぎょう)藤原(中山)忠親(ただちか)の日記。巻数不明で年月の欠落も多いが、1151年(仁平1)から1194年(建久5)まで44年間にわたる記事が伝わっている。忠親は洛東(らくとう)中山(なかやま)に別邸があり、三槐の一つ内大臣に昇ったので、その日記を『山槐記』とよんだ。別名『貴嶺(きれい)記』ともいう。平氏政権期から源平内乱期に及ぶので、安徳(あんとく)天皇の誕生・即位、平重盛(しげもり)病死、清盛の大輪田泊(おおわだのとまり)修築、以仁王(もちひとおう)挙兵と宇治(うじ)合戦、福原遷都、後鳥羽(ごとば)天皇即位、元暦(げんりゃく)の大地震など、重要な史実を加える記事が多い。記主忠親は1194年に上表・出家し、翌年3月65歳で世を去った。本日記は除目(じもく)部類を加えて『史料大成』に収録刊行されている。
[戸田芳実]
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山槐記
さんかいき
平安時代末期の貴族中山忠親の日記。現在,仁平1 (1151) 年から建久5 (94) 年までのうち,19年分の写本が断続的に伝わっている。彼の一流が中山を称し,彼自身が内大臣 (大臣の唐名を槐門という) に上ったことによって,それぞれの1字を取って後人が記名とした。別に『達幸記』『貴嶺記』の名がある。貴族の日記の常として,儀式や行事に詳しいが,彼にはほかに『達幸故実抄』や『貴嶺問答』など,その方面での研究書がある。また,源平合戦についてみずから京都で見聞した事柄を詳細に書きとめている点にも特色がある。『史料大成』所収。
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さんかいき サンクヮイキ【山槐記】
(山槐は中山内大臣の意) 平安末期、正二位内大臣中山忠親の日記。仁平元年(
一一五一)から建久五年(
一一九四)に至る
記述がある。
欠失の
箇所が多いが、源平抗争の時代についての
史料的価値が高い。達幸記。貴嶺記。
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山槐記
さんかいき
平安末期〜鎌倉初期,内大臣藤原(中山)忠親の日記
山槐は中山右大臣の意。1151〜94年までの記事が現存するが,途中一部欠けている。源平興亡時代の重要な史料で,朝儀研究にも貴重。
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デジタル大辞泉
「山槐記」の意味・読み・例文・類語
さんかいき〔サンクワイキ〕【山槐記】
《「山槐」は中山右大臣の意》平安末期の公卿中山忠親の日記。仁平元年(1151)から建久5年(1194)に至る源平抗争期の記録。
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さんかいき【山槐記】
内大臣中山忠親の日記。名称は家名と大臣の唐名〈三槐〉に由来する。《忠親卿記》《貴嶺記》《達幸記》などともいう。1151年(仁平1)から94年(建久5)までが現存。平氏興隆から鎌倉幕府成立期の史料として貴重だが,途中欠落部分も多く,とくに保元・平治の乱の記事が欠逸しているのは惜しまれる。有職故実の部分を抄出したものに《達幸故実抄》(中山定親編,1428成立)がある。《史料大成》所収。【飯田 悠紀子】
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