日本歴史地名大系 「山辺郡」の解説
山辺郡
やまべぐん
県東北端に位置する南北に細長い郡。東は三重県の
郡名の文献上の初見は、和銅二年(七〇九)一〇月二五日の弘福寺田畠流記帳(円満寺文書)。「和名抄」に「山辺郡」と記し、流布本に「夜万乃倍」と訓ずる。「日本書紀」雄略天皇一三年三月条に「耶麼能謎」、建暦二年(一二一二)二月二九日付藤原氏寄進状案(「古簡雑纂」関白宣下拝賀記裏書)に「山野辺郡」、「更級日記」の初瀬詣に「山のべといふ所」などとみえるので、山辺の古訓は「やまのべ」であろうが、現郡名は「やまべ」と読む。昭和二九年の天理市市制施行に伴い、郡域は古来の山辺郡の東部山間地のみとなり、のちに旧添上郡の東山地区を併せた。
〔原始〕
都盆地の西、初瀬川・高瀬川の水源地付近には、天理市内の
弥生時代の遺跡も都盆地を中心に多くみられ、高塚遺跡・
古墳時代の遺跡は水田耕作を営んだ低湿遺跡を中心に発展し、顕著なものにゼニヤクボ・友田・川向の遺跡がある。弥生時代以後の著しい生産力の発展を背景に、大字南之庄の
山辺郡
やまべぐん
- 千葉県:上総国
- 山辺郡
上総国の北東部に置かれた古代以来の郡。東方は太平洋に面し、南は
〔古代〕
現東金市の
「和名抄」によれば
山辺郡
やまのべぐん
- 青森県:陸奥国
- 山辺郡
中世津軽地方に存した郡。この郡の名は建武元年(一三三四)八月二一日付の工藤貞行譲状(遠野南部文書)、同二年三月二三日付の北畠顕家国宣(同文書)、康永元年(一三四二)八月の波多野義資申状(新渡戸・岩大文書)など、建武新政から南北朝初期にかけての二、三の文書にみえるだけであるから、建武新政の前後、一時的に建てられた郡であったと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報