山辺郡
やまべぐん
面積:一一一・六五平方キロ
山添村・
都
村
県東北端に位置する南北に細長い郡。東は三重県の名張市・上野市と境し、西は桜井市・天理市・奈良市に、南は宇陀郡室生村・榛原町に、北は添上郡月ヶ瀬村に接する。奈良盆地東方、標高四〇〇―五〇〇メートルの高原地帯を占め西斜面は初瀬川・布留川・高瀬川など、大和川支流諸河川の水源地となっている。布目川・深江川が郡内を北流して木津川に注ぎ、名張川が遅瀬川・笠間川を合わせつつ、東県境を流れる。北に神野山、南に都介野岳、南郡境に額井岳・貝ヶ平山がある。南部の都
盆地は、比較的耕地も多く郡の中心部をなし、一帯は都介野高原とよばれる。風土に適した茶・抑制蔬菜を産し、昭和四〇年(一九六五)開通の大阪と名古屋を結ぶ名阪国道が郡内を東西に貫通している。
郡名の文献上の初見は、和銅二年(七〇九)一〇月二五日の弘福寺田畠流記帳(円満寺文書)。「和名抄」に「山辺郡」と記し、流布本に「夜万乃倍」と訓ずる。「日本書紀」雄略天皇一三年三月条に「耶麼能謎」、建暦二年(一二一二)二月二九日付藤原氏寄進状案(「古簡雑纂」関白宣下拝賀記裏書)に「山野辺郡」、「更級日記」の初瀬詣に「山のべといふ所」などとみえるので、山辺の古訓は「やまのべ」であろうが、現郡名は「やまべ」と読む。昭和二九年の天理市市制施行に伴い、郡域は古来の山辺郡の東部山間地のみとなり、のちに旧添上郡の東山地区を併せた。
〔原始〕
都
盆地の西、初瀬川・高瀬川の水源地付近には、天理市内の上入田遺跡・鈴原遺跡や都
村の高塚遺跡があり、縄文時代早期の土器片が出土する。木津川水系では、早期の押型文土器を出す遺跡は一〇ヵ所以上を数え、山添村の大川遺跡や広瀬遺跡・鵜山遺跡などが代表的なものである。
弥生時代の遺跡も都
盆地を中心に多くみられ、高塚遺跡・友田遺跡・ゼニヤクボ遺跡などがある。大字南之庄の川向遺跡では古式土師器とともに梯子などの木製品が発見されている。
古墳時代の遺跡は水田耕作を営んだ低湿遺跡を中心に発展し、顕著なものにゼニヤクボ・友田・川向の遺跡がある。弥生時代以後の著しい生産力の発展を背景に、大字南之庄の三陵墓東古墳・三陵墓西古墳のごとき有力者の陵墓が築かれたと想定される。大字白石の南方丘陵上や北白石の東北丘陵にも小規模の円墳群がみられるが未調査である。また耕地の少ない大字吐山周辺にも二〇基前後の後期古墳が存在し、発掘調査したものに池ノ谷一号墳・宮山三号墳がある。
山辺郡
やまべぐん
上総国の北東部に置かれた古代以来の郡。東方は太平洋に面し、南は長柄郡、北東は武射郡と接し、北西は下総国千葉郡など。「和名抄」東急本などでは也末乃倍の訓を付し、同書名博本ではヤマノヘと読んでいる。「拾芥抄」でもヤマノヘであるが、「寛政重修諸家譜」では「やまべ」とする。江戸時代の郡域は現山武郡山武町・成東町・九十九里町・大網白里町および東金市にわたり、一部茂原市・千葉市緑区に及んでいた。
〔古代〕
現東金市の久我台遺跡では六世紀中頃より一一世紀に及ぶ住居跡が検出されているが、古墳時代後期の栗囲式土器などの出土により、同遺跡から九十九里地域にわたるこうした房総の地が畿内政権の東北経営の拠点であったことをうかがわせるという。大化前代には武射郷の存在などから武社国造(国造本紀)の領域であったとされている。郡の成立は明らかでないが、平城宮跡出土木簡に「上総国山□」とみえ、当郡と考えられる。天平二〇年(七四八)山辺郡岡山郷の丈部臣曾禰万呂が出家を出願している(四月二五日「智識優婆塞等貢進文」正倉院文書)。曾禰万呂は正倉院文書に散見する。天平勝宝七年(七五五)筑紫国へ赴いた防人に山辺郡上丁物部乎刀良がおり、「わが母の袖持ち撫でてわが故に泣きし心を忘らえぬかも」と詠んでいる(「万葉集」巻二〇)。
「和名抄」によれば禾生郷・岡山郷・管屋郷・山口郷・高文郷・草野郷・武射郷の計七郷が置かれており、「養老令」戸令定郡条の規定では下郡に相当する。高文郷は長屋王家木簡にみえる武昌郡高舎里とする説があり、これによれば郡境の変更があったことになる。山口郷に関連する現東金市の山田水呑遺跡では八世紀前半より九世紀後半にかけての住居跡などが検出され、また多数の墨書土器銘も注目されるが、東金市の南西部より大網白里町の北西にかけてはこれらを含めて奈良・平安期の集落遺跡が一〇ヵ所発掘されている。現千葉市緑区の小食土廃寺は奈良・平安期の寺院で、その檀越は上総国分寺の造営に関与していたことが想定されている。
山辺郡
やまのべぐん
中世津軽地方に存した郡。この郡の名は建武元年(一三三四)八月二一日付の工藤貞行譲状(遠野南部文書)、同二年三月二三日付の北畠顕家国宣(同文書)、康永元年(一三四二)八月の波多野義資申状(新渡戸・岩大文書)など、建武新政から南北朝初期にかけての二、三の文書にみえるだけであるから、建武新政の前後、一時的に建てられた郡であったと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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