虫生別符
むしようべつぷ
現安真木の上真崎・下真崎に比定される。江戸時代の真崎村は前期まで虫生村と称していた。建久八年(一一九七)の豊前国図田帳写(永弘文書/鎌倉遺文二)に「虫生稲光」とみえる。「字佐大鏡」には「虫生稲光田数六十丁 同時定卅五丁」とみえ、領主の大宰府貫首道信は嫡子道時に「虫生別符」を譲ろうとしたが、道時が父に先立って死去したため、道時の娘三人に分割譲与した。しかし次女・三女が不孝者であったため、すべてを長女に譲り直した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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