真崎村(読み)まさきむら

日本歴史地名大系 「真崎村」の解説

真崎村
まさきむら

[現在地名]諫早市真崎本村名まさきほんむらみよう白岩町しらいわまち堂崎町どうざきまち中尾町なかおまち山川町やまかわまち馬渡町まわたりまち

諫早市中の西方に位置し、東大ひがしおお川と支流の真崎川が流れる。地内のじよう(七二・九メートル)の山頂部に主郭とみられる平坦地のほか、石塁・門・空堀・土塁など中世城跡と推定される遺構があり、真崎城とよばれる。志々岐四郎左衛門の築城というが、築城年代を含めて未詳。北に続く峰の鞍部に礫石の集積跡、南西麓に湧水池と思われる跡などがあり、地名の「しろじゃ」は城跡の意という。


真崎村
さねざきむら

[現在地名]中村市実崎さんざき

間崎まさき村の北にあり、かいもり山系の三原みはら(現幡多郡三原村)山中より発して東北流する深木ふかき川が四万十しまんと川に合流するところ、四万十川下流右岸にある。寛保郷帳・享和三年(一八〇三)仮名付帳に「さねざき」と訓ずる。実崎とも書く。「土佐州郡志」は「東西一町南北四町、有大川、出自予州界流過村、渡口有船」と記す。弘安四年(一二八一)五月日付前摂政鷹司兼平家政所下文案(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)金剛福こんごうふく(現土佐清水市)供田畠のうちとして「同村曾禰村灯油畠壱丁」とあり、正応二年(一二八九)五月日付前摂政一条実経家政所下文(同文書)および建武二年(一三三五)四月七日付権少僧都心慶下知状(同文書)にも同様のことがみえるが、この曾禰村がのちの真崎村にあたると考えられる。


真崎村
まさきむら

[現在地名]川崎町安真木あまぎ

河崎かわさき村の南東に位置し、村内を中元寺ちゆうがんじ川が流れる。中世の虫生むしよう別符の遺称地で、江戸時代前期まで当村は虫生村と称されていた。元和八年人畜改帳では「虫生村」と記され、高一千四四一石余、家数一七三・人数三九六(うち百姓二五・名子四八・鍛冶一・番匠一・境目道番二)、牛五四・馬三六。正保国絵図でも虫生村とみえるが、元禄豊前国高帳には真崎村に「古ハ虫生村」という張紙がある。宝永四年(一七〇七)の田川郡本田郡鑑(猪膝手永中村家文書)では真崎村と記され、高一千一二一石余。郷村高帳では高一千四一二石余、うち新田高一四六石余。旧高旧領取調帳では高一千二八七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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