行方原(読み)ゆきかたはら

日本歴史地名大系 「行方原」の解説

行方原
ゆきかたはら

所在についてまだ確定に至る資料はないが、鏡石かがみいし笠石かさいし成田なりたから矢吹三城目さんじようめ・矢吹・中畑なかはた中島なかじま滑津なめづに広がる比較的平坦な丘陵地の総称であったと思われる。「義経記」巻第一に、安倍貞任が「行方ゆきかたの原に馳せ向ひて、源氏を待つ。大蔵の大夫大将として五百余騎白川関うち越えて行方の原に馳せつき、貞任を攻む」とある。また貞治六年(一三六七)八月二五日の足利義詮感状(結城小峰文書)に「石河庄、行方野合戦」で吉良貞家の子治家を討った功が記されている。「白河風土記笠石村の項にも、小名行方野戸数一九軒とあり、行方野原について「義経記」と同内容の記事を載せている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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