西白河郡
にししらかわぐん
面積:四九四・五四平方キロ
表郷村・東村・中島村・矢吹町・泉崎村・大信村・西郷村
西端の甲子山から阿武隈川が流れ出して東流し、白河市を経て中島村で北に流れを変える。南域中央部に白河市があり、その部分を含んで南は栃木県那須郡那須町、南東は東白川郡棚倉町、東は石川郡浅川町・石川町・玉川村、北は岩瀬郡鏡石町・天栄村、西は甲子山で南会津郡下郷町に接する。ほぼ西から東へ傾斜した地形で、多くの川が東流して阿武隈川に注ぎ、その流域に平地がある。南東部の表郷村は八溝山地の北部に位置し、中央部を社川が東流する。白河市域から北東に国道四号、JR東北本線・東北新幹線、東北自動車道が通る。明治一二年(一八七九)郡区町村編制法施行により白河郡が改称して成立した。
〔原始〕
縄文時代遺跡は比較的少ない。弥生時代遺跡に表郷村滝ノ森B遺跡があり、人面付土器が出土している。泉崎村踏瀬大山遺跡は東北地方南部における弥生土器編年上の標式遺跡である。当地域は古墳や横穴墓も多く、泉崎村泉崎横穴墓群のうち四号横穴は昭和八年(一九三三)に東北地方で初めて発見された装飾横穴墓である。泉崎村原山古墳群からは多彩な人物埴輪が出土した。東村笊内古墳群は古墳時代後期の古墳群と横穴墓群である。矢吹町鬼穴古墳群は後期古墳の代表的なものとして知られる。東村佐平林遺跡は古墳時代から平安時代の大規模集落跡。表郷村の建鉾山祭祀遺跡は五世紀後半のものといわれる。谷地前C遺跡は旧石器時代と奈良・平安時代の大規模な複合遺跡で、土師器のなかには墨書・線刻のあるものが出土している。
〔古代〕
「続日本紀」養老二年(七一八)五月二日条に「割白河・石背・会津・安積・信夫五郡、置石背国」とあり、陸奥国から白河郡を含む五郡を割いて石背国が分置されている。この当時の白河郡は現在の白河市・西白河郡・石川郡・東白川郡・茨城県久慈郡大子町を含んでいたと思われる。「和名抄」国郡部の白河郡には「之良加波」と訓を付し、「国分為高野郡」と注記されることから、白河郡高野郷が郡に昇格したのは一〇世紀初頭と考えられる。高野郡は現在の東白川郡と大子町の地域である。「国造本紀」に白河国造がみえる。承和二年(八三五)一二月三日の太政官符(類聚三代格)によれば、白河関と菊多関(現いわき市)を置いてから「于今四百余歳矣」とあり、白河関の建置は五世紀にさかのぼることになる。神亀五年(七二八)四月一一日白河軍団が新設され(続日本紀)、八世紀末と思われる多賀城跡出土木簡に「白河団進上射手歴名事」とみえ、実際に陸奥多賀城に兵士が派遣されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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