袁崇煥(読み)えんすうかん(その他表記)Yuán Chóng huàn

改訂新版 世界大百科事典 「袁崇煥」の意味・わかりやすい解説

袁崇煥 (えんすうかん)
Yuán Chóng huàn
生没年:?-1630

中国,明末の武将東莞広東省東莞市)の人。字は元素。1619年(万暦47)進士となり,兵部職方主事,按察使を歴任した。26年(天啓6)1月,清軍が寧遠城を攻めたとき,彼はポルトガルから輸入した銃砲をもって撃退し,功により遼東巡撫となり28年(崇禎1),兵部尚書となった。椵島(皮島)において活動していた明の武将毛文竜を殺したため明の勢力が弱まり,勢いを得た清の太宗は29年10月,喀喇沁,順義を経て北京に迫った。袁崇煥は防戦につとめたが,明の崇禎帝は清の太宗の作為した讒言ざんげん)を信じ,崇禎3年8月袁崇煥を磔刑に処した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「袁崇煥」の意味・わかりやすい解説

袁崇煥
えんすうかん
Yuan Chong-huan; Yüan Ch`ung-huan

[生]?
[没]崇禎3(1630)
中国,明末の武将。東莞 (広東省) の人。字は元素。万暦 47 (1619) 年の進士。僉事から累進して按察使となり,清軍の攻撃にあたり寧遠城 (遼寧省興城県) を守備し,天啓6 (26) 年清の太祖ヌルハチ (奴児哈赤)に包囲されたが,ポルトガル砲で撃退し,太祖に重傷を負わせた。その功で遼東巡撫となり,崇禎1 (28) 年には兵部尚書に進み,薊遼 (けいりょう) 督師を兼ねて,東北辺を防衛した。翌年清軍がモンゴルを回って北京に迫ると,急ぎ軍を返し防戦したが,敵を誘導するとの讒言にあって獄に下され,磔刑になった。そののち明朝は辺境守備に人材なく,滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の袁崇煥の言及

【堅壁清野】より

…深溝を掘り,城壁の守りを堅くするとともに,田野にあるものいっさいを除去して,敵を苦しめる戦術をいう。無城郭の広範囲な郷村防衛の例として,嘉慶の白蓮教の乱を鎮圧した勒保,龔景瀚(きようけいかん)等の策,城郭都市防衛の例として,無敵を誇る清の太祖ヌルハチを寧遠城に死守して敗走させた袁崇煥の策が知られている。【勝村 哲也】。…

【崇禎帝】より

…これに対処するために万暦の遼餉(りようしよう)に加えて勦餉(そうしよう),練餉など多額の田土付加税を新設したが,徴収は思うにまかせず軍費はかさむ一方であった。こうしたとき,帝は清の反間策に乗じられ,讒言(ざんげん)を信じて東北辺防衛の中心的人物袁崇煥を誅殺してしまった。以後辺防に人才がなくなり明の防衛力は急速に弱まった。…

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