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崇禎帝 すうていてい Chong-zhen-di; Ch`ung-chên-ti

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

崇禎帝
すうていてい
Chong-zhen-di; Ch`ung-chên-ti

[生]万暦38(1610)
[没]崇禎17(1644)
中国,明の第 16代,最後の皇帝 (在位 1628~44) 。名は由検。廟号は毅宗。泰昌帝の第5子,天啓帝の弟。即位するや魏忠賢以下の前代の奸臣を殺し,徐光啓を用いて内政の改革をはかったが,廷臣の党争が激しく十分な成果のないまま,外からは清朝の攻撃を受け,内には李自成らの農民反乱 (→李自成の乱 ) が起り,国運衰微した。

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デジタル大辞泉の解説

すうてい‐てい【崇禎帝】

[1610~1644]中国、朝第17代、最後の皇帝。在位1628~1644。廟号(びょうごう)は毅宗(きそう)。旧権力を一掃し、徐光啓を用いて改革に努めたが、財政難、内乱の続発に苦しんだ。李自成の北京攻略の時に自殺し、明は滅亡した。荘烈帝。

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世界大百科事典 第2版の解説

すうていてい【崇禎帝 Chóng zhēn dì】

1610‐44
中国,明の第17代最後の皇帝。在位1628‐44年。姓名は朱由検。廟号は毅宗,荘烈帝ともいう。泰昌帝の第5子で,天啓帝の弟。1622年(天啓2)信王に封じられ,28年即位した。生れつき英明で,宦官魏忠賢ら前代の奸臣を誅殺し,名臣徐光啓を用いて内政の改革をはかった。しかし諸臣は前代以来の東林,非東林(東林党)の派閥を組み,内には党争が絶えず,外からは清の圧力がますます加わった。これに対処するために万暦の遼餉(りようしよう)に加えて勦餉(そうしよう),練餉など多額の田土付加税を新設したが,徴収は思うにまかせず軍費はかさむ一方であった。

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大辞林 第三版の解説

すうていてい【崇禎帝】

1610~1644) 中国、明朝最後の皇帝(在位1628~1644)。廟号びようごうは毅宗きそう。宦官かんがん魏忠賢らを排して明朝の復興を図ったが、清の南下と農民反乱に苦しみ、李自成の北京攻略の際に自殺。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

崇禎帝
すうていてい
(1610―1644)

中国、明(みん)の第17代皇帝(在位1628~44)。姓名は朱由検。諡(おくりな)は荘烈愍(そうれつみん)皇帝。廟号(びょうごう)は毅宗(きそう)。14代皇帝万暦帝(ばんれきてい)の孫。15代泰昌帝(たいしょうてい)の第5子。16代天啓帝の弟。母は賢妃劉(りゅう)氏。1622年信王に封ぜられ、28年即位。帝は英明で声色を近づけず、衰運の明朝を復興する熱意を示し、前代の奸臣(かんしん)の魏忠賢(ぎちゅうけん)以下を殺し、弾圧されていた東林系の正義派官僚を釈放し、韓(かんこう)、劉鴻訓(りゅうこうくん)、銭龍錫(せんりゅうしゃく)などを入閣させた。また、キリスト教徒で水利や綿作など農政に通じた徐光啓を用いて財政再建を図った。施策にはみるべきものがあり、一時太平を期待させたが、なお内には万暦朝以来の党争の余派が残って官僚間に統一がなく、外には将卒ともに腐敗して軍事力も弱体化していた。当時、成長しつつあった満州(清(しん))の勢力には、なお十分に対応しえたが、戦費の膨張は万暦の遼餉(りょうしょう)に加えて、勦餉(そうしょう)、練餉(れんしょう)のいわゆる三餉となって納税負担者を苦しめた。明末無藝(むげい)の徴といわれるところである。加えて干魃(かんばつ)、水害など自然災害が相次ぎ、深刻な飢饉(ききん)となり、都市の暴動や農村の反乱が起こった。ことに陝西(せんせい)から起こった李自成(りじせい)の農民軍は軍規も厳格で、「貴賤(きせん)にかかわらず田を均(ひと)しくし、三年間の徴税を免じ、百姓を殺さぬ」という民生安定策が民心を集め、急速に成長して、ついに都北京(ペキン)を攻略した。帝は皇子を落ち延びさせ、皇女を斬(き)り、都の背後の煤山(ばいざん)(万歳山)で首をつった。1644年3月18日であった。[川勝 守]

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