西サハラ紛争(読み)にしサハラふんそう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西サハラ紛争」の意味・わかりやすい解説

西サハラ紛争
にしサハラふんそう
Western Sahara conflicts

アフリカ大陸の北西端に位置する旧スペイン領サハラの独立をめぐる問題。領有権を主張する周辺国の対立に民族解放組織がからんで紛争状況を呈している。西サハラリン鉱石の産地で,領有権を主張するモロッコアルジェリアの係争地域であったが,1973年独立を求める住民がポリサリオ戦線 (POLISARIO) を結成。しかし,75年モロッコがサハラ大行進と呼ばれるデモンストレーションを行い,翌年モーリタニアとの間で分割・併合に持込んだ。同年2月,これに反発したポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言,問題はアフリカ統一機構 OAUの場に持込まれた。激しさを増す解放運動に悩まされたモーリタニアは,79年にポリサリオ戦線と妥協して併合地域を放棄。他方,モロッコは同共和国の承認に傾いたアフリカ諸国に抗議して,84年の OAU首脳会議で機構からの脱退を宣言した。 88年,独立かモロッコへの併合かの西サハラ住民投票を含んだ国連事務総長の和平案がモロッコ,ポリサリオ戦線の双方に提示され,91年に双方がこれを受諾した。しかし 92年に予定されていた住民投票は,投票資格をめぐり対立し,繰延べられた。 97年,アメリカのベーカー元国務長官が国連事務総長特使として調停にあたり,両者は合意した。国連は住民投票準備のため国連西サハラ住民投票監視団 MINURSOを派遣した。 99年,モロッコ国王ハッサン2世死去,西サハラの都市アイウンでの学生暴動などがあり,依然,住民投票は実現していない。

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知恵蔵 「西サハラ紛争」の解説

西サハラ紛争

旧スペイン領西サハラの領有権をめぐる、モロッコ、モーリタニアと、民族自決を要求するポリサリオ戦線(POLISARIO)との紛争。1975年11月、スペインはこの2国とマドリード3国協定を締結し、両国の領有権を認め、76年には両国の西サハラ分割が実施された。一方、ポリサリオ戦線は同年、サハラ・アラブ民主共和国(SADR)樹立を宣言、アルジェリアの支援を得て武力闘争を開始した。79年、モーリタニアの領有権放棄表明後は、モロッコとポリサリオ戦線の対立となった。アフリカ統一機構(OAU)首脳会議は84年、SADRのOAU加盟を決議、モロッコはOAUを脱退した。88年、両者は停戦と民族自決を決める国民投票を勧告した国連事務総長和平提案を受諾。91年5月、国連安保理は、西サハラの独立かモロッコへの帰属かを問う国民投票を行う、との国連事務総長の提案を承認する決議を採択した。しかし有権者認定の基準や方法をめぐり両者が対立したため、国民投票は遅れた。2000年の国民投票実施を決めたヒューストン合意が達成された。しかし、モロッコの反対で、実施は延期された。02年11月、モロッコ国王・モハメド6世は突如、国民投票を拒否、ポリサリオ戦線を支援する隣国アルジェリアとの対立が高まった。04年、アナン国連事務総長はベーカー元米国務長官を特使として派遣、5年間の自治期間後、住民投票で帰属を決める調停案を提示したが、モロッコは拒否。05年にはフランス・スペイン共同提案も拒否した。同年11月にはモハメド国王は西サハラ住民に対し、モロッコの領有権と引き換えに完全自治権を与えると提案したが、ポリサリオ戦線は拒否した。

(林晃史 敬愛大学教授 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西サハラ紛争の言及

【西サハラ】より

…それに対して〈ポリサリオ戦線〉が西サハラの独立を主張し,アルジェリアの支援を得て武装闘争を開始,76年にサハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言した。このことから〈西サハラ紛争〉が発生し,79年にモーリタニアが南部を放棄した後,モロッコが西サハラ全域を併合した。1980年から87年にかけてモロッコは〈壁〉といわれる防衛線を建設し,ポリサリオ戦線軍の攻撃を防ぐとともに,併合した西サハラ地域の都市施設や道路建設を進め,有効支配の実績を固めようとした。…

※「西サハラ紛争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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