北西アフリカ西端にある地域。旧スペイン領サハラ。北はモロッコ、東から南にかけてモーリタニア、北東端の一部でアルジェリアと国境を接し、西は大西洋に面する。面積25万2120平方キロメートル、推計人口21万4000(1993)とされるが、政策的なモロッコ人移民の大量流入と、西サハラ住民のアルジェリアやモーリタニアへの難民流出で、人口は不詳であり、このことが国民投票の有権者登録作業を困難にしている。首都はアイウン(別称ラーユヌ)。地形は全土がサハラ砂漠の西縁をなす台地と、これを刻むワジとよばれる涸(か)れ川や盆地からなる。年降水量100ミリメートル以下の極乾燥地域が大部分である。海岸部はカナリア海流(寒流)が南流するため比較的過ごしやすく、月平均気温はダフラで8月23℃、1月17℃であるが、内陸部は1日の較差、年間の較差ともに大きく、夏暑く冬寒い。北部は冬少雨があり農耕可能である。住民はアラブ・ベルベル系住民が大部分で、アラビア語方言を話すが、スペイン語も通じる。宗教はイスラム教である。基本的な生業はラクダ、ヒツジ、ヤギの遊牧、オアシス農業、通商である。内陸のブクラアに世界有数の燐(りん)鉱山があり、ベルトコンベヤーで運ばれアイウンから輸出される。広い大陸棚とカナリア海流の恵みにより沖合いは好漁場で、アイウン、ダフラが漁業基地になっている。アルジェリアのティンドゥーフ地域に流出した難民は養鶏業を行っている。
[藤井宏志]
古くからアラブ・ベルベル系遊牧民の居住地域であったが、15世紀にスペイン人が大西洋岸に進出し、港を開き商館を置いた。ヨーロッパ列強のアフリカ分割により、1884年スペインはこの地域の北部にサギア・アル・ハムラ、南部にリオ・デ・オロの二つの植民地をつくり、カナリア諸島の属領とした。1956年両植民地は統合されてスペイン領サハラとなり、一般に西サハラとよばれた。第二次世界大戦後、住民の独立への要求が高まり、1968年サハラ解放戦線(後のポリサリオ戦線)を結成した。一方、モロッコは、大モロッコ主義の考えから、西サハラの領有を主張し、1975年「緑の行進」を挙行した。1976年2月27日、ポリサリオ戦線が「サハラ・アラブ民主共和国」(SADR)の樹立を宣言したことに対応し、同年7月スペインは西サハラから撤退、同地をモロッコとモーリタニアに分割領有させた。ポリサリオ戦線は両国への独立闘争を開始。モーリタニアはポリサリオ戦線の攻撃により大損害を受け、1979年分割領有を放棄し、国土は事実上モロッコが領有することになった。しかしモロッコの実質支配下にあるのは拠点のみといわれ、アイウンも周囲を高い防塁で守られている。1988年、独立かモロッコへの併合かを決める住民投票の実施を内容とする国連事務総長和平案を、ポリサリオ戦線、モロッコ双方が原則受託したが、有権者登録作業が進まないことを理由に、投票実施は延長を重ねた。一度は1998年12月7日に投票が実施されることになったが、投票資格をめぐりポリサリオ戦線が反対、投票日は99年12月以降に延期された。1997年現在、70数か国がSADRを承認している。
[藤井宏志]
北西アフリカの西端にある係争地域。旧スペイン領サハラで,1976年にスペインが撤退して以降モロッコが領有している。しかし西サハラ住民の民族運動組織である〈ポリサリオPOLISARIO戦線(サギア・アルハムラとリオ・デ・オロ解放のための人民戦線)〉が〈サハラ・アラブ民主共和国al-Jumhūrīya al-`Arabīya al-Dimuqrāṭīya al-Ṣaḥrāwī〉の樹立を宣言(1976年2月)して武装抵抗を継続中であり,国連による調停活動が行われているが,西サハラの国際的地位は現在(1997年12月)もなお定まっていない。
面積は約26万6000km2で,北のサギア・アルハムラ(サーキヤ・アルハムラーSāqiya al-Ḥamrā’)と南のワーディー・アッザハブWādī al-Dhahab(リオ・デ・オロRio de Oro)の2部分からなっている。大西洋に面してはいるが,年雨量がわずか30~50mm程度であり,国土全体がサハラ砂漠の一部をなしている。平地が多いが水が乏しいため,遊牧とわずかの農耕(大麦,メイズ)が主要産業であった。1962年にリン鉱石が発見され,ブクラアBoucrâa鉱山で採掘が開始されたが,埋蔵量は100億tに達するといわれる。また西サハラ沿岸は世界有数の漁場であり,水産資源にも恵まれている。おもな都市は,中心都市であるアイウンal-`Aiyūn(人口17万,1999)のほか,ダフラDakhla(旧ビヤ・シスネロスVilla Cisneros),ラ・グエラLa Güeraなどの港町と内陸のスマーラSmāra,ゲルタ・ズムールGuelta Zumūrなどである。
人口は1974年のセンサスによれば約7万5000,スペイン人を加えても10万に満たなかった。現在は不明だがスペイン人のかわりにモロッコ人が流入し,国外に約5万人といわれる難民が流出した。住民の大多数はアラブ・ベルベル系で,ベルベル語のまじったアラビア語(ハサニーヤ)を話すムスリムであるが,黒人系の住民もいる。ルギーバ,テクナほか約20の部族に分かれている。8世紀以降のアラブ化,イスラム化を通じて西サハラの文化が形成されたという点はモーリタニアとも共通する点である。北方の域内大国モロッコの侵攻をたびたび受けたが,その支配は継続せず,中央集権的国家こそできなかったが,地域としてのまとまりをもっていた。
19世紀後半からスペインは西サハラへの本格的進出を開始し,リオ・デ・オロへの通商基地建設(1884),フランスとの妥協による勢力圏の確定(1912)という段階を経て,1934年から内陸も占領し,サギア・アルハムラとリオ・デ・オロはイフニ,タルファヤTarfayaとともにスペイン領西アフリカとして同じ植民地行政区域に編入された。モロッコの独立(1956)後,スペインはタルファヤをモロッコに返還し,イフニを切り離して(1969年に返還),西サハラにおける植民地支配の継続をはかる一方で,経済開発を進めた。そのためスペインは,西サハラの解放つまり自国への併合を要求するモロッコと対立したが,1975年に撤退に同意し,翌年モロッコとモーリタニアの分割領有が始まった。それに対して〈ポリサリオ戦線〉が西サハラの独立を主張し,アルジェリアの支援を得て武装闘争を開始,76年にサハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言した。このことから〈西サハラ紛争〉が発生し,79年にモーリタニアが南部を放棄した後,モロッコが西サハラ全域を併合し,現在に至ってる。
執筆者:宮治 一雄
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アフリカ北西部の旧スペイン領サハラ。1976年スペイン撤退後のモロッコによる占領に対し,ポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国独立を宣言して対立抗争中。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…正式名称=モロッコ王国al‐Mamlaka al‐Maghribīya∥Kingdom of Morocco面積=45万8730km2(西サハラを除く)人口(1996)=2673万人首都=ラバトal‐Rabāt(日本との時差=-9時間)主要言語=アラビア語,ベルベル語通貨=ディルハムDirham北アフリカ(マグリブ地方)の独立国。
【自然,住民】
アフリカの北西端にあり,北は地中海,西は大西洋に面している。…
※「西サハラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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