目次 自然,住民 政治 経済,産業 社会,文化 基本情報 正式名称 =アルジェリア民主人民共和国al-Jumhūrīya al-Jazā'irīya al-Dimuqratīya wal-Sha`bīya, Democratic and Popular Republic of Algeria 面積 =238万1741km2 人口 (2010)=3598万人 首都 =アルジェAlgier(日本との時差=-9時間) 主要言語 =アラビア語,フランス語,ベルベル語 通貨 =アルジェリア・ディーナールAlgerian Dinar
北アフリカ(マグリブ)の中央を占める共和国。
自然,住民 北は地中海,南はニジェールとマリに接している。また東はチュニジアとリビア,西はモロッコとモーリタニアに接する。国土面積は広大で日本の約6倍もあるが,その約85%を占める南部地方は砂漠であり,住民や経済活動は北部地方に集中している。北部地方には,地中海に沿って東西に走る二つの山脈,テル・アトラスTell Atlas山脈とサハラ・アトラスSahara Atlas山脈があり,また南部地方にはアハガル(ホガール)山地 がある。
地中海沿岸地方は,冬雨夏乾の典型的な地中海性気候であり,年雨量が600mmをこえるが,山脈を越えて南下するにつれて雨量が低下し,また気温の較差が大きい大陸性気候に変わっていく。地中海沿岸には平野部が少ないが,二つの山脈の間は台地状の高原であり,サハラ・アトラス山脈の南麓はなだらかな勾配でサハラ砂漠につらなっている。
アルジェリアの先住民は,コーカソイド (白色人種群)でアフロ・アジア語族のベルベル語を話すベルベル であるが,7世紀と11世紀にアラブの侵入をうけ,長い間にアラブと混交して,住民の大半はイスラムに帰依し,アラビア語を話すようになった。今なおベルベル語を母語としている住民は,全人口の2割にみたない。植民地時代にはヨーロッパ系植民者の比率が1割以上(約100万人)を占めていたが,独立後そのほとんどがフランスなどに移住した。アラビア語が公用語であり,独立後正則アラビア語(フスハー)が普及したが,口語はアラビア語アルジェリア方言であり,今なおフランス語もかなり通用する。近代以前の歴史・社会については〈マグリブ 〉の項を参照されたい。
政治 1830年のアルジェ占領から1962年の独立まで,アルジェリアは132年間にわたってフランスの植民地支配をうけた。いわゆる移住植民地として多数のヨーロッパ系植民者が定着していたために,名目上フランス本土の一部とされていたが,実質的には植民地にほかならず植民者の少数支配体制がつくられ,アルジェリア人は,フランス本国と植民者による二重支配の圧政に苦しんだ。植民地支配は,また後に述べる二重経済,多人種社会と呼ばれるようなひずんだ社会経済構造をつくり上げたし,文化的にはフランス語とキリスト教を強制することによって,アラビア語とイスラムを支柱とするアルジェリア民族の個性を否定しようとした。
独立後の現在からみると,植民地支配は,国境の確定と国土の統一,法体系と行政制度の整備のような,国家形成の基礎となる影響も残している。だがそのためにはアルジェリア人がまず民族運動によって植民地支配体制をくつがえし,次いで独立後の政治過程のなかで植民地的な遺制を打破していくことが必要であった。
アルジェリアの民族運動は,次のような段階をたどって発展した。すなわち,(1)アブド・アルカーディル の抵抗に代表される19世紀の征服に対する武力抵抗運動,(2)〈青年アルジェリア運動〉といわれた第1次大戦前後の民族復興を目標とした文化運動,(3)〈ムスリム議員同盟〉やベン・バディースBen Badīsの指導する〈ウラマー協会〉が担った両大戦間の政治的地位向上運動,そして(4)第2次大戦後の独立をめざす民族解放運動,の4段階である。どの段階も次の段階を準備したという点に意義があり,独立後の政治体制については,(4)のなかでもその最終段階であるアルジェリア戦争 が大きなインパクトを与えた。
1962年の独立以来の歴史をふり返ると,権力構造と政策志向の継続性とともに,著しい変化を認めることができる。次のような四つの時期に分けて政治過程を考察することができる。
(1)ベン・ベラ 政権期(1962-65) 1962年7月の独立前後からFLN(民族解放戦線)の内部で激しい権力闘争がおきたが,軍部を掌握するブーメディエンHouari Būmedīn(1927-78)の支持をうけたベン・ベラが政権についた。ベン・ベラは,1963年9月に憲法を制定して政治体制の枠組みを定め,64年4月のFLN大会が採択したアルジェ憲章で,社会主義的な経済建設の方向を確認した。また積極的非同盟主義と民族解放闘争支援という外交の基本路線も定めた。ベン・ベラ政権は,65年6月の軍事クーデタで崩壊したが,大統領への権力集中,それを支える軍部,FLN,官僚機構の三本柱というアルジェリア型政治体制の特徴は,アルジェリア革命の伝統にもとづく上記の政策志向とともにその後の政権にも受け継がれた。
(2)ブーメディエン政権期(1965-70) ベン・ベラに代わって政権についたブーメディエンは,憲法を停止し国会を解散して,国権の最高機関として革命評議会を設置した。メンバーは議長(国家元首)となったブーメディエンも含めていずれも国民解放軍(ALN)出身の軍人である。ALNは,独立後〈人民国軍〉と改称されたが,権力を支える上記の三本柱のうちFLNと官僚機構が再編成過程で弱体であったのに対して,軍隊は政治性と組織性を兼備した唯一の集団であった。ブーメディエンは民主主義の問題を棚上げにしながら,経済における民族主義と開発主義に重点をおく政策を実施した。(3)ブーメディエン政権第2期(1971-75) 政権を安定させたブーメディエンは,後に述べる経済計画を実行し経済開発の課題に取り組んだ。国内で一連の社会主義的政策(第2次土地改革,労働者経営参加,医療無料化,農業税廃止)を実施し,国外では新国際経済秩序の樹立に向けて活発な外交を展開した。経済政策に重点をおき,その成果によってクーデタで獲得した政権の正当性を主張し,革命の伝統に忠実な政策の実施によって政権の正統性を主張しようとしたのである。
(4)ブーメディエン政権第3期(1976-78) 独立後の経済開発と社会変動の結果生み出された社会問題が,参政権を奪われた国民の政治運動としてあらわれ始めたとき,ブーメディエンはそれまで棚上げにしていた民主主義の問題への対応策を取った。すなわち1976年6月の国民憲章制定,11月の憲法制定,12月の大統領選挙,そして翌77年2月の国会議員選挙である。国民に参政権を回復することによって政権の合法性を回復したといってもよい。ところが78年12月ブーメディエンは不治の病に倒れ,惜しまれて世を去った。
(5)ベン・ジェディド政権期(1979-91) 1979年1月のFLN大会では後継者の指名をめぐって争いがあったが,軍部の長老ベン・ジェディドShadlī Ben Jadīdが政権を掌握した。シャドリ・ベン・ジェディド(独立戦争中から姓よりも名で知られており,シャドリ大統領と呼ばれることが多い)は,80年6月の臨時FLN大会,82年3月の国会選挙をへて,政敵を権力中枢から排除し,長期安定政権の基礎を固めた。新政権の政策は,政治の面では国会とFLN機構の重視,限定的自由化(たとえばクーデタ以来拘禁されていたベン・ベラ元大統領の釈放),経済の面では工業化政策の見直しや社会問題への対策などをその特徴としている。
84年の選挙で再選,88年に三選されたシャドリ・ベン・ジェディド大統領は,当初国民憲章の改定(86年1月),人民議会の改選(87年2月)などの制度的正統性の確立を重視する一方,イスラム運動,ベルベル運動をはじめとする民主化要求に厳しい態度で臨んでいた。しかし,88年10月アルジェ暴動を契機として,89年2月に憲法改正が行われ,FLNによる一党独裁の廃止,複数政党制への移行,言論・結社の自由などの民主化政策が進められることになった。20をこえる政党が活動を開始したが,大別すると政府与党系,イスラム政党系,民主諸派という三つの系統に分けることができる。そのうち,急速に勢力を台頭したのはイスラム政党FIS(イスラム救済戦線)であり,90年6月の地方選挙で地滑り的な大勝を果たし,91年12月の国会選挙でもFISの大勝とFLNの壊滅が明らかになった。イスラム政権の成立に対して危機感をもった軍部は翌年1月に事実上のクーデタを起こして,シャドリ大統領を解任し,国家高等委員会体制を樹立して,権力を掌握した。
(6)ゼルアル政権期(1992- ) 軍部に推戴されたブーディアフMuḥammad Boudiaf国家元首は,1989年憲法を停止してFISの非合法化を決定するとともに,民主化過程への復帰と経済情勢の回復という二つの課題に取り組んだが,いずれも順調に進まなかった。FLNをはじめとする諸政党が軍事政権に反対したほか,FIS系ほかさまざまなイスラム派活動家が武力抵抗とテロを開始したからである。92年6月にブーディアフ元首が暗殺されアリー・カーフィAlī Kāfi元首に交替した後もテロの対象が民間人や外国人に拡大され,それに対する政府の弾圧もエスカレートして,97年末までに6万人以上の死者を出したとされている。
1994年1月に軍部の推薦によって国家元首に就任したゼルアルLamine Zerroualは,リスケジュール(債務繰延べ)政策を実行し,また国会選挙など政治の民主化過程への復帰に取り組んだ。
経済,産業 経済の面では移住植民地としての特徴は,二重経済構造という形であらわれた。すなわち植民者が掌握する近代化された経済部門とアルジェリア人が属する伝統化された経済部門の並存である。前者では,フランス経済との結びつきを前提として輸出向け農業(ブドウ,かんきつ類),鉱業(鉄,燐鉱),インフラストラクチャー(道路,港湾)が発展したが,わずかの軽工業を除いて工業の発展は抑えられた。それに対して後者では,自給自足農業(麦類と牧畜)が主体であり,前者に労働力を提供するだけで,前者の発展から取り残されていた。
このような植民地経済の状態こそ,アルジェリア革命の経済的背景であり,独立政府の課題は,植民地的経済構造の変革,経済開発と経済的自立を同時に達成することであった。アルジェリアの特徴は,社会主義的経済政策の実験を続けたこと,そしてその財源として石油,天然ガスの収益を利用できたことである。
経済政策に注目しながら独立後の経済をみると,やはり四つの時期に分けて発展の軌跡をあとづけることができる。これは政治発展の時期区分と若干ずれながら,ほぼ対応している。
(1)民族主義の時期 独立前後からヨーロッパ系植民者が急激に出国したために経済活動は大幅な混乱と停滞に陥った。ベン・ベラ政権の課題は,アルジェリア人を経済運営の担い手にすることであり,そのために経営権の移転とアルジェリア人人材の養成が急務となった。この時期に実現したのは,国有財産の管理権移管,植民者所有農地の国有化・自主管理化(第1次土地改革)であり,人材については,外国人への依存状態がつづいた。1966年から鉱山,銀行,保険などの基幹部門,68年からは製造工業や流通部門の主要な企業が対象になり,71年のフランス系石油会社の国有化によって,民間部門,外国系企業のアルジェリア化も基本的に完了した。ブーメディエン政権は経営方式として国営会社制度を採用した。民族主義の延長線上にある政策を重視したという意味で,民族主義の時期と呼ぶことができよう。
(2)開発主義の時期 1968年から経済開発計画の策定が進められ,第1次四ヵ年計画(1970-73)と第2次四ヵ年計画(1974-77)が相ついで実施された。鉄鋼業,石油化学工業などの重工業の発展に重点を置き,それが生み出す波及効果によって他の工業部門を発展させるという戦略である。この方針は第2次計画では若干修正され,雇用創出効果の点から軽工業もおこされたが,二つの計画を通じて石油収入をもとに消費を抑制して国内生産の40%にのぼる投資を行い,重化学工業化を推進したという点で,開発のアルジェリア型モデルとして注目された。その結果著しい経済成長(1967-78年にGDP実質で2.25倍)があり,産業構造も大きく変化した。その反面で都市問題,住宅問題の深刻化のように社会資本の立遅れが顕著になり,農工格差,地域格差が拡大した。経済成長のなかで経済の二重構造が再生産されていること,また生活水準の向上が進まないことに国民の不満が高まりはじめた。ブーメディエン政権末期から重工業プロジェクトの凍結を含む工業化戦略の見直しがはかられ,社会開発(住宅建設,教育など)や農業を重視するようになった。経済開発至上主義がとられたという意味で,開発主義の時期と呼ぶことができよう。
(3)保守主義の時期 ベン・ジェディド政権になって発表された第1次五ヵ年計画(1980-84)には,こうした政策転換が示されている。そのほか経営効率(とくに設備の稼動率)を高めるために国営会社の経営陣の刷新や分割による規模の適正化がはかられ,軽工業,商業については民間企業の奨励,外国人による直接投資(合弁事業)の振興などの政策も打ち出された。
社会,文化 植民地社会の特徴は,多人種社会であったことである。フランス人を頂点とし,他のヨーロッパ系植民者とユダヤ人が中間を占め,多数のアルジェリア人は社会階層の底辺に置かれていた。独立後,植民者がほとんど帰国し,アルジェリア人化が進んで多人種的社会構造は急激に変化したが,アルジェリア人内部の階層分化が進んだ。すなわち従来の商人,地主のほか,公共部門の中堅幹部,技術者が加わったことにより,中産階級の厚みが増し,下級公務員,国営会社社員などの階層も増加した。だが国民の大多数を占める農民の場合,土地改革の受益者はわずかであり,経済成長の過程で新しく指導的地位についた官僚ブルジョアジー(高級官吏,軍人,国営会社幹部など)との所得格差が拡大していった。3%を超える人口増加率が維持され,脱農化現象が進んだために都市人口が急増し,都市での雇用問題,住宅問題,青少年問題などが深刻化した。フランスへの出稼ぎが社会的安全弁になっていたが,1973年以降新規流出が禁止された。このような急激な社会変化,生活様式の変化を原因とする社会不安が,1970年から文化問題の形をとって顕在化するようになった。とくに目立つのは,イスラム,アラビア語,少数民族をめぐる問題である。
植民者がキリスト教とフランス語を武器とする文化攻勢をかけたのに対して,植民地支配下のアルジェリア人はイスラムとアラビア語を支柱に民族意識を擁護しようとした。独立政府は,両者の復興という民族運動の目標を達成し,同時に上からの国民統合を推進するために,イスラムとアラビア語の普及に最大限の便宜を与えた。それに対して政治体制や政策志向への不満,社会変化への不安感が,下からのイスラム化,アラビア語化の運動として表明されるのである。前者はふつうイスラム原理運動と呼ばれるもので,地方都市の伝統的中間層(商人,職人)だけでなく,大都市の理工系学生や青年労働者の間に支持者が拡大した。また後者は,アラビア語教育を受けた知識人や学生がその担い手であり,アラビア語への転換が官庁や国営会社でなかなか進展せず,したがってアラビア語習得者の就職機会が奪われることへの抗議行動である。政府にとってはそれらが自然発生的な大衆行動であるだけに危険な兆候であったが,やがて88年のアルジェ暴動となって政治体制そのものの変革を余儀なくされた。
最後に少数民族問題としてベルベル人の運動がある。アルジェリアの国語・公用語はアラビア語であるが,言語からみるとベルベル語を母語とするベルベル人が全人口の2割弱を占めている。なかでもカビール人の問題はアルジェリア独立直後に反政府運動として表面化したこともあり,根は深い。政府がベルベル語と固有の伝統文化を無視して多数派住民への同化を強制することに反発し,1970年代に入り文化活動をさかんに行った。 執筆者:宮治 一雄