アフリカ北西部、サハラ砂漠の西端にある国。正式名称はモーリタニア・イスラム(イスラーム)共和国Jumhuriyat Muritaniya al-Islamiya。北は西サハラとアルジェリア、東と南はマリ、南西はセネガル川でセネガルに接し、西は大西洋に面する。面積102万5520平方キロメートル、人口290万6000(2005推計)、329万1000(2009推計)。首都はヌアクショット(人口67万3000。2007推計)。
[藤井宏志]
国土の大部分はサハラ砂漠に属するが、その基盤は先カンブリア時代の花崗(かこう)岩や片麻(へんま)岩で、その上を古生代の砂岩やそれ以後の堆積(たいせき)物が覆い、全般に地形は平坦(へいたん)である。海岸平野やセネガル川流域を除くと、内陸部はアドラル高原、タガント高原のような標高200~500メートルの高原をなし、その縁辺には急崖(きゅうがい)がみられる。高原の麓(ふもと)には湧水(ゆうすい)があるのでオアシスが分布している。大西洋沿岸には大陸棚が広がり、タコ、イカ、タイ、シタビラメ、エビなどの漁業資源に恵まれている。西サハラ国境に砂州状のブラン岬があり、天然の良港ヌアディブーがある。
北緯17度線以北の国土の5分の4の地域が年降水量200ミリメートル未満の砂漠気候で、それより南は降水量200~500ミリメートルのサヘル(ステップ)気候である。サヘル気候の雨期は8月を中心に、夏季3か月であるが、降水量は年による変動が大きく、よく大干魃(かんばつ)がある。気温は内陸部と沿岸部とではかなり異なるが、全体に夏は高温で、冬は20℃前後と涼しい。内陸部の砂漠は日中きわめて高温だが、夜は急速に気温が下がり、日較差が大きい。北部では冬は日中でも寒くなる。沿岸部はカナリア海流(寒流)のため夏も涼しくしのぎやすい。北東貿易風による砂漠からの細かい飛砂に覆われることが多い。
[藤井宏志]
国土は、北緯17度線以北のサハラ地域、その南のサヘル地域、西の大西洋沿岸地域に3区分される。サハラ地域にはおもにムーア人Moor(モール人ともいう)が住み、ラクダ、ヒツジの遊牧やナツメヤシ、野菜のオアシス農業を行っている。オアシスを結んで北アフリカとスーダン地方を結ぶ古くからの交易路があり、アタルはその中継都市の一つである。北部のズエラートには高品位の鉄鉱山がある。人口密度はきわめて低く、北東部は無居住地域が広がる。
サヘル地域にはおもにネグロイド系のアフリカ人が住み、アワ、モロコシ(ソルガム。イネ科の穀物)、トウモロコシの栽培やウシの牧畜が行われ、セネガル川流域では水稲が栽培される。この国でもっとも人口密度の高い地域である。マリやセネガルへの道路沿いにロソ、カエディ、アレグ、キファ、ネマなどの農産物集散都市がある。
大西洋沿岸地域の沖合いは、広い大陸棚とプランクトンの栄養に富んだカナリア海流によりタコ、イカ、タイ、エビ、マグロなどの大漁場をなし、沿岸には漁村が分布する。鉄鉱輸出港ヌアディブーは漁業基地でもある。ヌアクショットは首都として地下水の得られる固定砂丘上に新しく建設された都市である。国の政治、経済、交通、文化の中心地で工場も立地している。中国の援助で近代的港湾が建設された。
[藤井宏志]
この地方は古くから北アフリカとブラック・アフリカの南北両勢力が接触する場であった。4世紀以降、スーダン人(ネグロイド系)の一部族サラコレのガーナ帝国の勢力下にあったが、11世紀ベルベル人のムラービト朝の支配下に入りイスラム(イスラーム)化した。イスラム勢力が南下した13世紀にアラブ系遊牧民ベニ・ハサンが侵入し、彼らの話すハサン方言のアラビア語が普及した。砂漠の拡大もあってスーダン人は南へ後退し、ムーア人がこの地方とスーダン人を支配するようになった。15世紀にヨーロッパ人が来航し、アルギン島などに交易の拠点を置いて、奴隷やアラビアゴムの交易を行った。19世紀にはイギリス、フランスの植民地化の競合の場となったが、20世紀初めフランスは軍隊を派遣して占領し、フランス領西アフリカの一部とした。先住の諸部族の抵抗は続いたが、1933年フランスは鎮圧に成功し、部族支配構造を利用した統治を行った。
第二次世界大戦後、フランスの海外領土として地方議会、国会に議員を送るようになり、政党が結成され、1951年の選挙では保守勢力を代表するモーリタニア進歩同盟が多数を占めた。1956年、モーリタニア地方議会は行政府を組織し、副首相(首相はフランス人高等弁務官)に弁護士のダッダMoktar Ould Daddah(1924―2003)が選ばれた。1958年フランス共同体の共和国となり、1960年11月28日に独立を宣言した。1961年、憲法が制定され、初代大統領にダッダが就任した。議会は諸勢力を統合したモーリタニア人民党が全議席を占めた。1965年には人民党の一党制を規定し、その後大統領ダッダの親仏政策を基調とする政治が続いたが、1968年から1970年代初頭にかけ干魃(かんばつ)に襲われ、社会不安に対処するため1972年フランス資本の鉄鉱採掘会社を国有化するなどモーリタニア化を推進した。1975年西サハラ問題でモロッコと協定を結び、西サハラ南半のリオ・デ・オロを分割領有したが、西サハラの独立を目ざすポリサリオ戦線の抵抗で戦争となり、戦費の増大と鉄鉱山の破壊で経済が悪化した。1978年7月のクーデターで、独立以来18年間続いたダッダ政権が倒れ、国家再建軍事委員会(後の救国軍事委員会CMSN)が全権を握った。1979年8月にはポリサリオ戦線と和平協定を結び、リオ・デ・オロの領有を放棄した。
[藤井宏志]
1978年のクーデター以後、軍部を中心とするCMSN(救国軍事委員会)が権力を握ったが、内部の権力抗争により、クーデターや政変が繰り返された。1979年首相ブシェクが実権を握ったが事故死したため、後任の首相ハイダラと議長ルーリーの双頭体制ののち、首相ハイダラが議長、大統領に就任し全権を握った。しかし、1984年クーデターで失脚し、元首相タヤMaaouya Ould Sidi Ahmed Taya(1943― )が大統領に就任した。1991年7月、結社・表現の自由、大統領の直接選挙など民主化をうたった新憲法が国民投票で承認された。1992年1月、複数政党制による大統領選挙でタヤが当選し、同年3月、4月の上下両院選挙では、与党の共和民主社会党(PRDS)が多数を占めた。1996年11月の第2回上院選挙ではPRDSが改選18議席中17議席を占め、同年10月の下院選挙でも79議席中72議席を得た。外交では非同盟中立を基本とし、フランスをはじめ欧米諸国との関係を深めている。1997年の大統領選挙でもタヤが再選された。2000年の上院選挙、2001年の地方および議会選挙でも与党のPRDSが圧勝した。2003年の大統領選挙でもタヤが当選(3選、4期目)。2005年8月、軍がタヤ不在中にクーデターを決行、「民主主義のための軍事評議会」を設置し、バル大佐が議長に就任した。議会を解散し、大統領の再選を1度のみとすることを国民投票で決めた。2007年3月の大統領選挙で元財務相アブドライSidi Mahamed Ould Cheikh Abdallahi(1938―2020)が当選して大統領に就任、民政に移管した。同年8月6日人事をめぐってふたたび軍はクーデターを起こし大統領のアブドライを拘束、大統領警備隊長アブドルアジズMohamed Ould Abdel Aziz(1956― )が国家評議会の議長となった。2009年7月9人が立候補して大統領選挙が行われ、アブドルアジズが当選。同年8月大統領に就任した。
旧フランス領西アフリカ諸国の一員であるが、独立後アラブ陣営への傾斜を強め、1973年アラブ連盟に加盟した。1983年アルジェリア、チュニジアと友好協力協定を締結し、西サハラ問題で対立したモロッコおよびリビアとは1985年に国交を復活した。軍隊は徴兵制で、総兵力は1万5650人である。
[藤井宏志]
伝統的な遊牧国家であったが、独立後、鉄鉱石鉱山および漁業の開発が進み、1人当り国民総所得(GNI)は840ドル(2007)で、アフリカの乾燥地域の国のなかではやや高位にある。ポリサリオ戦線との戦争によって経済が悪化し、外国からの援助への依存が大きく、1994年の対外債務額は23億ドルに達したが、1990年代後半にはGDP成長率はプラスを保っている。
牧畜はムーア人遊牧民の伝統的産業で、放牧地は国土の38%に及び、就業人口の53%が従事している。飼育家畜数はヒツジ885万頭、ヤギ560万頭、ウシ169万頭、ラクダ160万頭、ニワトリ420万羽(2007)などで、総家畜数は人口の5倍以上に達する。一方、耕地面積は国土の0.5%以下にすぎず、農業はセネガル川流域を中心に営まれるが、収穫は干魃の影響を受けやすい。農産物は米7万7000トン、トウモロコシ1万7000トン、ナツメヤシ2万2000トン、スイカ8000トン(2007)などだが、毎年20万トン前後の食糧を輸入している。
漁業は、鉄鉱石の生産と並ぶ主産業で、タコ、イカ中心の水産物は最大の輸出品である。かつては日本、韓国、ソ連など多くの外国漁船が入漁し、その入漁料を外貨獲得源としていた。1978年以後、外国漁船の入漁を規制し、伝統的漁業とトロール漁船による近代漁業の自国漁業団を育成し本格的漁業開発に乗り出している。ヨーロッパ諸国のシーフード志向により、航空機輸送での鮮魚とその調理品の輸出が伸び、小漁民による漁業も発展している。
鉄鉱石は水産物と並ぶ輸出品で、1974年には765万トンを産した。1975年以後は石油危機による鉄鉱需要の落ち込みや西サハラ紛争の激化で生産が減少し、その後も不況で停滞していたが、2007年には770万トンと回復している。鉄鉱石はフデリック近郊のズエラート鉄山で産出され、全長652キロメートルの専用鉄道を、200両連結の世界最長の列車でヌアディブー港まで運ばれ輸出される。同鉄山の埋蔵は枯渇化傾向にあり、隣接するゲルマ鉄山の開発が進んでいる。
輸出品は水産物23.6%と鉄鉱石68.6%(2007)で二分し、おもな輸入品は機械類、食料品、石油製品、自動車などとなっている。貿易相手国はフランス、スペイン、中国などである。
[藤井宏志]
住民は、北アフリカから移動してきたベルベル人とアラブ人(ベニ・ハサン人)の混血であるムーア人が人口の大半を占め、ほかにロソを中心にウォロフ人Wolof、セネガル川流域にフルベ人Fulbe(プールPulaar)、トゥクロール人Tukulor、マリ国境地域を中心にサラコレ人Sarakole(ソニンケSoninke)などのネグロイド系の人々が住む。ムーア人には身分制度があり、外国人権団体から奴隷の存在を非難され、国民議会は2007年に反奴隷法(奴隷所有に10年の禁固刑)を可決した。全人口の56%が都市部に居住し、とくに首都への人口集中は著しい。伝統的な遊牧民は減少し、2000年には人口のわずか4.8%となっている。公用語は正則アラビア語であるが、日常的にはフランス語(かつての公用語)、ハッサニア語(アラビア語方言)、ウォロフ、フルベなどの各民族集団の言語を話す。正則アラビア語の公用語化はネグロイド系の反発を招いている。宗教はイスラム教(イスラーム)が国教である。義務教育は小学校(6年)で、識字率は55.8%(2007)である。高等教育機関として師範学校、技術専門学校のほか、1983年にヌアクショットに国立大学が開校した。日刊紙は『シャーブ』(フランス語、正則アラビア語)、国営ラジオ・テレビ放送がある。ユネスコの世界遺産に「ウワダン、シンゲッティ、ティシットおよびウワラタの古い集落」(文化遺産)、「バンダルギン国立公園」(自然遺産)の二つが登録されている。
[藤井宏志]
かつては沿岸の漁場に日本漁船が多数入漁し、日本政府も漁業技術向上のための技術援助を行ってきた。1982年(昭和57)の入漁料値上げで日本漁船は撤退したが、現在はタコなどの水産物を大量に輸入し、農業、米、車両などの援助も行っている。
[藤井宏志]
基本情報
正式名称=モーリタニア・イスラム共和国al-Jumhūrīya al-Islāmiya al-Mūrītānīya
面積=103万0700km2
人口(2010)=337万人
首都=ヌアクショットNouakchott(日本との時差=-9時間)
主要言語=アラビア語(バッサニヤ),フルフルデ語,ソニンケ語,ウォロフ語
通貨=ウーギヤOuguiya
アフリカ西端,サハラ砂漠南西部にあり,大西洋に面する共和国。乾燥気候のもとにある。
地形は標高200m以下の低地が多いが,内陸部には標高200~500mのアドラル高原,タガント高原があり,鉄鉱石などを産する。高原の縁辺には急崖があり,湧水が得られるのでオアシス集落が立地する。南部のセネガルとの国境にはセネガル川が西流し,流域では農耕が行われている。大西洋沿岸は遠浅で大陸棚が広く,南流するカナリア海流(寒流)とも相まって,好漁場となっている。
気候は,ほぼ北緯17度線を境に,北が年降水量200mm未満の砂漠気候(国土の80%)で,ムーア人(モール人)の居住地域,南が200~500mmのサヘル(ステップ)気候で,農牧業を行う黒人系諸部族の居住地域となっている。雨季は夏の3ヵ月が中心で,雨が少ないと干ばつになりやすい。気温は夏に高温で,冬は平均気温20℃とやや涼しくなる。沿岸ではカナリア海流の影響で夏もしのぎやすい。北東から吹く乾燥した熱風(ハルマッタン)のため,サハラ内部からの飛砂に覆われることが多い。
執筆者:藤井 宏志
隣国のマリなどと同様に,サハラ砂漠の南縁に位置するため,住民構成は北アフリカのアラブ系民族と,アフリカ黒人系の部族とが,それぞれ国の北部と南部を占めている。人口比率は,北部の砂漠地帯に住む,アラブとベルベルの混血のムーア人(モール人)が60%,南部のサヘル地帯の黒人系諸部族が40%であるが,近年,両者の比率が接近しつつあり,南北対立の問題が先鋭化しつつある。ムーア人は11世紀ころにこの地に進出して王国を形成した。本来,その生活様式はラクダ,牛,ヤギ,羊などの遊牧であったが,現在では都市に居住し近代的職業に従事する者が増加している。宗教や言語などアラブ文化を守り,1960年の独立以来ずっと政権を握ってきた。一方,黒人系の諸部族は,南部のセネガル川流域に居住している。なかでも,セネガル川中流の河谷に住むトゥクロール族がいちばん人口が多く,次いでマリとの国境地域のサラコレ族Sarakole(ソニンケとも),セネガル川下流域のウォロフ族Wolofが続いている。いずれも,ミレット,トウモロコシ,ラッカセイなどを栽培する農耕民で,灌漑により稲作も行っている。彼らは人口でいえば少数派であるが,商業にも従事して国の経済を握っている。そのほか北部のオアシスには,かつてムーア人に隷属したハラッティンがナツメヤシや麦を栽培している。また牛牧民のフルベ(プル,フラニ)族が定住ないし半定住の生活を送っている。モーリタニアの大西洋岸は好漁場であり,沿岸ではウォロフ族がカヌーや帆船を使い,タイ,ハタ,アジ類の一本釣りや刺網漁を行っている。アラブ系のイムラゲン族も,旋刺網を使ってイルカが追い込むボラを採る独特の漁法で知られており,アラブ系には珍しく魚を食用にしている。またセネガル川でも,ウォロフ族などが淡水漁業に従事している。
国の公用語はかつての宗主国のフランス語であったが,1968年にハッサニヤと呼ばれるアラビア語の方言も公用語に加えたため,黒人系の住民,とくにウォロフ族から反発が強まった。その後91年の新憲法では,フルフルデ語,ソニンケ語,ウォロフ語の三つの黒人系の言語が国語と定められた。アフリカ大陸でもイスラムが最も早く浸透したため,住民の宗教はイスラムであり,国教ともなっている。
執筆者:赤阪 賢
現在のモーリタニアがある地域(マウレタニア)は,古くから,北アフリカ勢力と西アフリカ勢力の接触,抗争の場所となっていた。4世紀以降は黒人系サラコレ族の築いたガーナ王国の勢力下にあった。11世紀ころより,交易関係にある北アフリカのベルベルやモロッコのムラービト朝の影響をうけ,王国ではイスラム化が進行した。13世紀になると北アフリカからベルベル系やアラブ系の遊牧民が侵入し,各部族が群雄割拠してこの地域を支配するようになった。アラブ系の一部族ベニ・ハッサンの言葉が普及し,これが現在この国で話されているハッサニヤ語となった。
15世紀,いわゆる大航海時代に入ると,ヨーロッパ人が来航しはじめ,アルギン島など大西洋沿岸に交易(アラビアゴム,奴隷)の拠点を置いた。19世紀,ヨーロッパ人によるアフリカの植民地化が開始されると,この地域はイギリスとフランスの競合の場となったが,フランスは19世紀終りから20世紀初めにかけ,アルジェリアとセネガルから軍隊を送って領有し,1904年フランス領西アフリカの一部とした。モーリタニアの諸部族は植民地化に強い抵抗を示したが,33年フランスは平定に成功した。セネガルのダカールのフランス総督に直属するフランス人知事がモーリタニアの全権を握り,部族長などを利用する間接統治を行った。
第2次大戦後,フランスの海外領土の一つとして地方議会が設置され,本国国会にも代表が送れるようになり,政党が結成された。51年の選挙では保守派勢力のモーリタニア進歩同盟が多数を占めた。独立運動の高揚から,56年フランスは地方議会より選出した行政府を設け,副首相に弁護士のダッダMoktar Ould Daddahが選ばれた(首相はフランス人高等弁務官が兼任)。58年にはフランス共同体を構成する自治共和国の一つとなり,60年11月28日に独立を宣言した。翌61年憲法が制定され,初代大統領にダッダが就任し,議会は諸部族勢力を統合したモーリタニア人民党が全議席を占めた。政治安定のため65年人民党の一党制が規定され,ダッダ大統領は親フランス政策を基調とする政治を推進した。しかし,68年から70年代初めにわたる干ばつに起因する社会不安の増大と批判勢力の台頭に対処するため,ダッダは民族化政策に転じ,74年フランス資本の鉄鉱会社を国有化するなど,全体にモーリタニア化を進めた。
75年の西サハラ(スペイン領サハラ)返還に際し,モロッコと協定を結び,南半のリオ・デ・オロを分割領有した。しかし,西サハラ独立を目ざすゲリラ組織ポリサリオの反発をうけ,戦争状態となった。ゲリラによる鉄鉱山の破壊と戦費の増大で財政は急速に悪化した。78年7月の軍事クーデタでダッダ政権は倒れ,国家再建軍事委員会が全権を握った。
独立以来のダッダ大統領が失脚した1978年のクーデタで,憲法は停止,議会と政党は解散させられた。18名の軍人による国家再建軍事委員会が最高政治機関として発足し,議長のサレク中佐が大統領に就任した。79年黒人系部族の独立運動と軍内部の革新運動から,委員会を再編して救国軍事委員会とし,ブシェフ中佐が議長兼首相として実権を握った。ブシェフ首相は周辺各国首脳と精力的に会談し,西サハラ問題の打開を図ったが,就任50日目にして飛行機事故で急死した。シディ中佐が暫定首相となった後,ハイダラ中佐が首相に就任しサレク大統領を罷免,ルーリー中佐が議長兼大統領となった。
ハイダラ首相はポリサリオと交渉し,西サハラ南部の領有権を放棄した和平協定を結んだ。80年1月ハイダラはルーリーを追放して国家元首と議長を兼ね,全権を掌握した。初代のダッダ政権は親フランス政策をとったが,ハイダラ政権は東西両陣営との友好を深め,親アルジェリア,親ポリサリオ政策をとり,84年2月にはポリサリオの樹立したサハラ・アラブ民主共和国を承認した。しかし委員会にはポリサリオと対立しているモロッコの侵攻を恐れる意見もあり,クーデタ未遂事件が起きたりした。また干ばつによる食糧不足もあって不安定な政情が続くなかで,84年12月ハイダラの外国訪問中にクーデタが起こり,参謀総長タヤ大佐が首相兼議長に就任した。冷戦終了後の世界的な民主化進展のなかで,91年7月,結社および表現の自由,大統領の直接選挙制など民主化をもりこんだ新憲法が国民投票で承認された。92年1月,複数政党制による大統領選挙でタヤが選ばれ,同年3~4月の上下両院選挙では与党の共和民主社会党(PRDS)が多数の議席を占めた。96年11月の第2回上院選挙ではPRDSが改選18議席中17議席を占め,同年10月の下院選挙でも同党が79議席中72議席を占めた。外交では非同盟中立を基本とし,フランスなど欧米諸国との関係を深めている。
ダッダ政権以来ムーア人が政治を握ってきたが,黒人人口の増加により,黒人系部族の不満も高まっている。地方行政は12地方,52県がある。司法制度は地方裁判所の上に控訴院,最高裁判所がある。1980年よりイスラム法が適用されるようになった。
貧しい国の多いサハラ南部の乾燥農牧国のなかで,この国は1人当り国民総生産が460ドル(1995)とやや高いのは,鉄鉱石を産出し,それが輸出額の約30~40%を占めているからである。鉄鉱石はおもに内陸部のズエラト鉱山で露天掘され,砂漠の中を650kmの専用列車でヌアクショット港へ運ばれ,ヨーロッパへ輸出される。最盛期には年産1200万tを示したが,現在は741万t(1996)になっている。ゲルブに新鉱山が発見されている。このほか岩塩鉱山,銅鉱山がある。
北緯17度線以北のムーア人地域では遊牧(ラクダ,羊,ヤギ)とオアシス農業が行われてきたが,住民の都市への流出が多く,1990年の調査では遊牧民は全人口の10%に減少している。南部では黒人系部族により牧牛や農耕が行われる。主要作物は,アワ,モロコシ,豆類,トウモロコシ,ジャガイモ,アラビアゴム,米などである。人口増加と干ばつで食糧が不足し,輸入や援助に頼っている。
大西洋沿岸は世界的な好漁場で,企業によるトロール漁業,沿岸漁民による小型漁船や帆船での伝統漁業が行われている。主要漁港はヌアクショットとヌアディブで,年漁獲高は9万t(1995)である。水産物は1980年代半ば以降,輸出額の第1位となり,これに鉄鉱石をあわせると,輸出のほとんどを占める。主要輸入品目は食糧,輸送機器,石油で,おもな貿易相手国はフランスをはじめヨーロッパ諸国と日本(輸出先の第1位),セネガルである。貿易収支は大幅な入超が続いている。ポリサリオとの戦争と干ばつにより国家財政は赤字続きで,外国の援助や借入に頼っている。タヤ政権は1985年から世界銀行・IMF主導の構造調整を導入した。
執筆者:藤井 宏志
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西アフリカ,大西洋岸のイスラームを国教とする共和国。アラブ系人が住む北アフリカ(マグリブ)と黒人が多く住むいわゆる黒アフリカの中間に位置する。国土の大半は砂漠で沿岸部と南部に農耕適地がある。フランス領西アフリカの地位から1960年に独立。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…古代の北アフリカにおけるマウリ族(ムーア人)の居住地域。今日のアルジェリア西部からモロッコ大西洋岸までの区域で,現在の西アフリカの国の名モーリタニアはこの呼称に由来する。前2世紀ころには,マウリ部族民による王国が形成された。…
※「モーリタニア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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