略称OAU。アフリカ諸国の独立と主権の擁護、協力と連帯の促進などを目的として、1963年5月25日、エチオピアのアディス・アベバでの、南アフリカ共和国を除く全独立国31か国による首脳会議で創設された地域機構。2002年7月発展・改組し、アフリカ連合となった。アフリカ統一機構は年1回の首脳会議を最高決定機関とし、そのもとに年2回の閣僚理事会、常設事務局をもち、加盟諸国間の紛争の平和的解決のための仲介・調停・仲裁委員会、防衛、経済・社会、教育、科学・技術、文化、保健・衛生など各専門委員会があった。また1978年に民間航空分野がこれに加えられた。結成時に採択されたOAU憲章は「汎(はん)アフリカ主義」の精神を反映しつつ、(1)主権平等、(2)内政不干渉、(3)領土の尊重、(4)紛争の平和的解決、(5)破壊活動の禁止、(6)非独立地域の完全解放、(7)非同盟路線、などを骨子としていた。
しかし、宗主国との闘争によって独立を達成したガーナなど反西欧的急進諸国(カサブランカ・グループ)と、植民地本国から独立を付与された親西欧的穏健諸国(モンロビア・グループ)との分極化という1960年代初頭の地域情勢下にあって、これらの原則はいずれも実現困難な理想であった。OAUは、設立当初の1963年11月のアルジェリア・モロッコ紛争、1964年のエチオピア・ソマリア・ケニア紛争、1965年のローデシア問題などでは「汎アフリカ主義」に沿って主要な機能を果たした。しかし、1965年末~1966年冒頭のコンゴ(のちザイール、現在のコンゴ民主共和国)、ガーナの軍事クーデターと右傾化の波を受け、域内諸国間の対立激化と相まって、「汎アフリカ主義」精神は形骸(けいがい)化が進行するところとなった。
1960年代後半以後に頻発したナイジェリア、チャドなどでの悲惨な内戦に際しても、内政不干渉を原則とするOAUは有効に対処しえなかった。さらに1970年代後半、旧ポルトガル領アンゴラやエチオピアで社会主義政権が誕生し、従来からの伝統的対立要因に冷戦的対立要因が加味され、OAUの有効性はさらに後退を余儀なくされた。現に1978年のいわゆる「アフリカの角(つの)」紛争へのソ連、キューバの介入に関し、OAU諸国は賛成、反対、中立へと3派に分裂した。さらに1982年8月、西サハラ問題をめぐる急進派と穏健派の対立から、OAUの歴史上初めて首脳会議が流会となり、アフリカ「不」統一機構とさえ酷評される事態を迎えた。1989年8月、OAUの南部アフリカ問題特別委員会は、黒人グループと南アフリカ政府の対話開始の条件として、(1)黒人解放運動指導者ネルソン・マンデラら政治犯の釈放、(2)黒人解放組織「アフリカ民族会議」(ANE)などの合法化、(3)非常事態の解除、など5条件を明示した「ハラレ宣言」を採択した。1995年にはアフリカ非核地帯条約(ペリンダバ条約)を締結した。2002年、アフリカ連合への改組直前の加盟国は53か国であった。
[黒柳米司]
1963年5月,アジス・アベバでのアフリカ諸国首脳会議で創設された世界最大の地域機構。略称OAU。アフリカ大陸圏の全独立国によって構成されている。原加盟国は32ヵ国であったが,2002年7月現在の加盟国は53を数える。西サハラ問題へのOAUの対応を不満としたモロッコは84年11月に脱退を声明,85年11月に発効した。本部,事務局はアジス・アベバに置かれている。OAUは,アフリカ諸国の統一・連帯・独立の確保,アフリカ諸人民の生活の向上,アフリカ大陸からの植民地主義の一掃,などのために,政治,経済,文化,外交,防衛,科学・技術その他の分野で加盟国の政策を整合・調和させることを目的とし,国家主権の尊重,領土保全,内政不干渉,紛争の平和的解決,近隣諸国に対する破壊活動の禁止,アフリカ圏内の未独立地域の全面的解放,非同盟などの諸原則を掲げている。機構面では,最高の意思決定機関である国家元首・政府首脳会議を頂点として,その下に閣僚会議(外相会議),事務局が縦につながり,横には仲介・調停・仲裁委員会,社会経済委員会,教育・文化・科学・保健委員会,防衛委員会などの専門委員会が配置されている。これらのうち,仲介・調停・仲裁委員会は,加盟国間の紛争をOAUの手で平和的に解決することによって外部勢力の介入を防ごうという狙いをもち,防衛委員会は将来全アフリカ的平和維持機構あるいはパン・アフリカ軍を創設することによって,パックス・アフリカーナ(アフリカ自身の手によるアフリカの平和)の確立を目指すものであるという点で,とくに重要である。なお未独立地域の解放闘争を支援するための解放調整委員会は,南アフリカにマンデラ政権が誕生した3ヵ月後の94年8月に,その使命を終えたとして廃止された。
元来OAUはパン・アフリカニズムの所産であり,〈アフリカの一体性〉を前提として創設された地域機構であって,事実これまで加盟国間の紛争の解決,アンゴラ,モザンビーク,ギニア・ビサウ等の旧ポルトガル植民地やジンバブウェ(旧,ローデシア),ナミビアといった少数白人支配地域の解放などに少なからず貢献してきた。2002年7月,AOUに代わる地域共同体として,アフリカ連合African Union(AU)が発足した。旧OAU参加の53ヵ国が加盟,アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)の推進などを課題としている。
執筆者:小田 英郎
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1963年5月,エチオピアの首都アジス・アベバでのアフリカ独立諸国首脳会議で創設された地域機構。2002年7月にアフリカ連合(AU)へと発展解消。32カ国の加盟による出発からモロッコ(85年脱退)を除くアフリカの全独立国(西サハラを含む)の組織へと拡大した。本部はアジス・アベバ。パン・アフリカニズムにもとづく「アフリカ合衆国」構想を具現化したもので,アフリカ諸国の統一・連帯・独立確保,アフリカ諸民族の生活水準向上,植民地主義一掃などを目的とし,政治,経済,外交,防衛,文化,科学技術などに関して加盟国の政策の調整を図り,国家主権の尊重,内政不干渉,領土保全,紛争の平和的解決,未独立地域の解放,暗殺・破壊活動の非容認,非同盟路線の堅持などを掲げた。アンゴラやナミビアなど南部アフリカの少数白人支配地域の解放に貢献。近年は対外累積債務問題などに有効な解決策を提示できず,コンゴやルワンダなどの地域紛争の解決に無力であったことなどが問題視されてきた。
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…だが内政面の不安定とは対照的に,エチオピアは外交面ではアフリカ圏内でもきわだった存在であり,ハイレ・セラシエ1世は強い指導性を発揮した。彼は63年5月にアフリカ諸国首脳会議を主催して,アフリカ統一機構(OAU)という世界最大の地域的国際機構を創設するのに貢献し,本部をアジス・アベバに誘致した。しかし,国際社会における威信の増大は国内的矛盾の減少につながるはずはなかった。…
※「アフリカ統一機構」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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