西郡庄(読み)さいぐんのしよう

日本歴史地名大系 「西郡庄」の解説

西郡庄
さいぐんのしよう

現大野町・揖斐川いびがわ町にわたる地に比定されるが、庄域は明らかではない。「吾妻鏡」貞永元年(一二三二)一一月一三日条によれば、寛喜飢饉にあたって北条泰時が民の生活を安定させるために「美濃国高城・西郡・大久礼」計一千余町の年貢・諸公事の進済を免除している。このとき派遣された平出左衛門尉・春近兵衛尉などは北条氏の代官とみられるので、当時は得宗領であったといえよう。下って嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に「公郷西郡宗種・公明朝臣」とあり、この頃は国衙領であったと思われる。正平二年(一三四七)一二月五日の四条隆資寄進状(観心寺文書)には西郡庄内黒野くろの方五分一とあり、和泉国塩穴しあな(現大阪府堺市)の替地として観心かんしん(現同府河内長野市)に寄進されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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