日本歴史地名大系 「西郡」の解説 西郡にしごおり 山梨県:総論西郡鎌倉時代からみえる広域通称で主として戦国期以降使用された。国中(くになか)を三分した場合の西側、ほぼ釜無川以西の地域をいう。現増穂(ますほ)町舂米の明王(つきよねのみようおう)寺蔵の貞応三年(一二二四)二月一五日奉納の鰐口銘に「甲斐国西郡高林内中尾権現宮」とある。永仁六年(一二九八)の白蓮本尊曼荼羅分与帳(興尊全集)には白蓮(日興)の弟子として「甲斐国西郡小室摂津公日仙」の名がみえる。また「鎌倉大草紙」には、古より逸見・武田・小笠原三家は甲州の大将であったが、源頼朝の時、加賀美・小笠原両家は信濃に移り、甲州半国は石沢五郎(武田信光)に、東郡は加藤氏、西郡は逸見氏に給されたとしている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by