大野町
おおのまち
[現在地名]金沢市大野町一―七丁目
宮腰町の北東、大野川河口に位置する中世以来の湊町。安政三年(一八五六)までは大野村と称し郡奉行の管轄下にあったが、同年一一月町立てが認められ宮腰町奉行支配に移管された。
大野町
おおのまち
面積:一〇九・四九平方キロ
郡北部に位置し、北は鎧ヶ岳・雲ヶ背岳連山を隔てて大分郡野津原町、北東は大分市、東は犬飼町・千歳村、南東は三重町、南は大野川を境にして清川村・緒方町、西は朝地町に接する。北部の峻険な山地帯を水源として南に流下する茜川は町域ほぼ中央で流れを東に転じて十時川などを合せながら東流する。茜川の西方を南へ流下する酒井寺川は南西端で平井川に入り、同川は南東流して大野川に合流する。南部の大野川北岸には大野原台地が広がり、南東部は代三五山などの山地帯となっている。中央部をほぼ東西に国道五七号が走り、北へ主要地方道大分―大野線が分岐する。
大野町
おおのちよう
面積:三四・〇七平方キロ
郡の南東部に位置し、揖斐川と根尾川(藪川)に挟まれて立地、北から西にかけては谷汲村・揖斐川町・池田町、南から東にかけては安八郡神戸町、本巣郡巣南町・真正町・糸貫町・本巣町と接する。郡内では珍しく町域の大半部が平地で、根尾川に沿うように三水川が南流する。同川上流筋の野古墳群と町域南部の上磯古墳群が知られる。五之里・六里など古代の条里遺構を示すと思われる地名が残り、南部の郡家は大野郡家の遺称であろうという。中世には皇室領の饗庭庄、京都祇園社領の上秋庄、九条家領の衣斐庄などが成立し、一方では国衙領として五里郷・公郷などがあった。
大野町
おおのちよう
面積:一三四・八八平方キロ
昭和三二年(一九五七)一月大野村が町制を施行して成立した自治体。渡島支庁亀田郡に属する。東は七飯町、北は茅部郡森町、北西は檜山支庁檜山郡厚沢部町、西から南は上磯郡上磯町に接する。北東を二股岳(八二五・六メートル)・弥五郎兵衛岳(六四九・九メートル)・木地挽山(六八三メートル)、北西を設計山(七〇一・五メートル)・毛無山(七五〇・六メートル)などに囲まれ、これらの山々から発する上・中・下の二股川、石川沢・上川汲沢などを集めた大野川が、町域中央部を北西から南東に流れる。
大野町
おおのまち
[現在地名]姫路市大野町
姫路城の北東にある町人町。野里寺町の北に続く生野街道(但馬街道)沿いの南北の町筋。町名は当地が古代餝磨郡大野郷(和名抄)であったことに由来するという(大正八年刊「姫路市史」)。中世は野里村で早くから鋳物師が住みつき活動した。慶長六年(一六〇一)の裏書がある野里村古地図に「野里ノ内いもし町」とある。外京口門東側の吹屋町がのち鋳物師町と改称したので、元禄八年(一六九五)写の姫路城図には野里と外京口門東の二ヵ所に「鋳物師町」がみえ、同一七年の姫路城城下町数飾万津町数覚(伊藤家文書)などには「野里鋳物師町」「京口鋳物師町」と書分けている。
大野町
おおのちよう
面積:七〇・四〇平方キロ
佐伯郡沿岸の西部に位置し、北東は廿日市町、北は佐伯町、西は大竹市に接し、東は大野ノ瀬戸を隔てて宮島町に相対する。面積の八割が山地で、沿岸部の複合扇状地と沖積平野、海面埋立地に市街地が展開する。海岸線とほぼ平行して国道二号と国鉄山陽本線が並走する。国鉄宮島口駅がある赤崎には広島電鉄宮島駅が連接し、厳島への連絡船があって宮島観光の基地となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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大野〔町〕
おおの
岐阜県南西部,揖斐川と根尾川に挟まれた町。1932年町制。1954年豊木村,富秋村,西郡村の 3村と合体。1956年鶯村,1960年川合村をそれぞれ編入。古墳や条里制の遺構があり,大宝令の駅伝の町で歴史は古い。揖斐川と根尾川の扇状地と洪積台地上に位置し,中心集落の黒野は商業の中心地。農産物は米,カキなどで,富有柿は特産。北部の石灰岩山地にセメント工業が立地。国の史跡に野古墳群 (前方後円墳 4,円墳 3) ,国の天然記念物に揖斐二度ザクラがある。国道303号線が通じる。面積 34.20km2。人口 2万2041(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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