…在地領主に宗形氏綱とその沽券(こけん)を受けた橘宗頼の名が見えるが,1199年(正治1)当時には関東補任の中原親能が下司,宗頼は下司代となっていた。1209年(承元3)親能の猶子大友能直が地頭下司職に補され,その子詫磨能秀が相続,以来詫磨氏が分割知行した。1337年(延元2∥建武4)最勝光院執務職とともに神蔵荘領家職は東寺に付けられたが,鎌倉末には年貢上納は半減しており,南北朝期には荘園としての実体は失われた。…
…中世肥後の武家。志賀,田原などとならぶ大友氏の有力庶家で,大友氏初代能直の次男能秀にはじまり,歴代詫磨別当と称する。能秀は能直から譲られた託麻郡の神蔵荘を本拠とし,その地頭下司職および隣接する飽田郡の鹿子木東荘の地頭下司職を領し,管内の名主層を従えていった。その子時秀は弟顕秀とともに蒙古合戦に参戦,その功により肥前国神崎荘内の一部地頭職,筑前国志登社,肥後国合志郡村吉等の地頭職を得た。次の頼秀は白川津本司職をも得て,いよいよ肥後中央部の有力勢力となっていった。…
…これは10世紀後半の事件である。下って鎌倉時代の中ごろ,御家人詫磨能秀と大友時景は母堂の尼深妙から相模国大友庄内名田在家等を譲られたので安堵下文を幕府に申請したところ,一族の大友泰直が異議を申し立てたため訴訟となり,建長5年(1253)7月30日能秀と時景に対し安堵の下知状が下されたが,それには〈而泰直去年十二月廿四日令出避文畢〉と記されている。【平山 行三】。…
※「詫磨能秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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