インノケンティウス3世(その他表記)Innocentius Ⅲ

山川 世界史小辞典 改訂新版 「インノケンティウス3世」の解説

インノケンティウス3世(インノケンティウスさんせい)
Innocentius Ⅲ

1160頃~1216(在位1198~1216)

ローマ教皇。イタリア人。ボローニャパリで学び,1190年枢機卿となり,枢機卿会のみによる自由な教皇選挙で選ばれ即位した。教皇領支配を確立し,教皇庁改組を行い,ドイツ帝位争いを調停して教皇権優位を示した。イングランド王ジョンを破門したのち封臣とし,フランス王フィリップ2世インターディクトをくだした。托鉢(たくはつ)修道会を保護育成し,ラテラノ教会会議教理を確立した。第4回十字軍アルビジョワ十字軍は失敗したが,中世最大の教皇として教権の絶頂期をもたらした。

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大学事典 「インノケンティウス3世」の解説

インノケンティウス3世

ローマ教会の普遍権力の強力な唱道者で,第4回十字軍を提唱。神聖ローマ皇帝となるフリードリヒ2世の保護者としても知られる。教皇在位1198-1216。教皇アレクサンデル3世が確立しようとした教授免許制度を受け継いで,その無償制の確立など文教政策も強力に推進した。パリ大学(フランス)に対しては,教授免許授与における教師たちの権限を大幅に認め,司教権下のカンケラリウスの権限を縮小した。ボローニャ大学(イタリア)では『グラティアヌス教令集』を編纂していたが,普遍権力としての教皇権の法的基盤を確立するためにさらなる教令編纂を推進するとともに,ボローニャやパリをその影響下に置くための大学政策も積極的におこなった。1215年の第4回ラテラノ公会議(第4回)で司教座に文法教師,大司教座に神学教師を置くことを定め,神学教育を整備した。次の教皇ホノリウス3世とともに,初期の中世大学に多大な影響を与えた教皇とされる。
著者: 児玉善仁

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改訂新版 世界大百科事典 「インノケンティウス3世」の意味・わかりやすい解説

インノケンティウス[3世]
Innocentius Ⅲ
生没年:1160-1216

ローマ教皇。在位1198-1216年。ローマの貴族の出身。パリで神学,ボローニャで法学を学んだ後教皇庁に入り,1198年38歳の若さで教皇となる。フリードリヒ2世の後見人としてドイツ皇帝の選挙に干渉し,離婚問題でフランス王フィリップ2世を破門し,イギリス王ジョン(欠地王)には封臣の誓いをさせるなど,教皇中最大の権威を誇った。彼の招集した第四ラテラノ公会議(1215)は異端対策,教会刷新,十字軍の組織化に大きな役割を演じた。
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世界大百科事典(旧版)内のインノケンティウス3世の言及

【ラテラノ公会議】より

…(3)第3回(1179) アレクサンデル3世Alexander IIIによって皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)との〈ベネチアの和議〉を確認するため開催。(4)第4回(1215) インノケンティウス3世Innocentius IIIによって召集され,異端鎮圧や第4回十字軍をはじめ,神学,典礼,教会法など多くの議題が論議された。(5)第5回(1512‐17) ユリウス2世Julius IIが反教皇的なピサ公会議(1511)に対抗するために開催したが,緊急に必要とされる改革はほとんど手をつけられずに終わった。…

【アルビジョア十字軍】より

…1145年聖ベルナールの巡回以来,ドミニコ会の登場まで教会の異端対策はシトー会が指導した。1208年教皇使節がトゥールーズ伯の家臣に殺害されると,教皇インノケンティウス3世は十字軍を宣布した。09年十字軍はリヨンに集結,ローヌ川沿いに南下する。…

【教皇】より

…かくてゲルマン民族移動時代において,ローマ司教は教皇としてローマ・イタリア民衆の霊的中心となった。その牧者的姿はダマスス1世DamasusI(366‐384),インノケンティウス1世InnocentiusI(401‐417),ケレスティヌス1世CoelestinusI(422‐432),レオ1世に見られる。教皇職の西欧中世での発展はグレゴリウス1世によって基礎づけられた。…

【キリスト教】より

…その後教皇ウルバヌス2世のときに十字軍が発足し(1096),教皇権の絶頂期を迎える。インノケンティウス3世(在位1198‐1216)はフランスとイギリスでも支配権を獲得し,イギリスではジョン王を屈服させてマグナ・カルタ(大憲章)成立の機をつくり,さらに第4次十字軍と少年十字軍をおこして東方正教会のローマへの従属という歴代教皇の夢を実現しようとしたが,これらのことは,叙任権闘争が本質において政治的であって宗教的ではないことを思わせるにたりる。この間,教会法はグラティアヌスのようなすぐれた学者をえて発達した。…

【シチリア王国】より

…しかし男系が絶えたため,グリエルモ1世の妹コンスタンツァと結婚したホーエンシュタウフェン家のハインリヒ6世が王位継承権を主張し,各地の抵抗を鎮圧して即位した(在位1194‐97)。彼の死後,王国は教皇インノケンティウス3世の仲介によってハインリヒの子フリードリヒ2世(在位1198‐1250)に受け継がれたが,その際に,教皇はノルマンのシチリア征服以来王国が教皇の封臣であることを宣言した。フリードリヒはノルマン朝の伝統を受け継ぎ,教会,都市,封建領主などの権利を厳しく制限し,官僚制を整え,裁判権を集中する一方,塩,鉄,絹などの国家独占によって財政基盤を強化した。…

【ラテラノ公会議】より

…(1)第1回(1123) カリストゥス2世Callistus IIによって召集された西方最初の世界教会会議で,その前年同教皇と皇帝ハインリヒ5世との間で締結されたウォルムス協約の承認を求めたもの。(2)第2回(1139) 教会改革のためインノケンティウス2世Innocentius IIによって召集され,アナクレトゥス2世Anacletus IIの離教やブレシアのアルノルドゥスArnoldusの教義に対し非難決議を行った。(3)第3回(1179) アレクサンデル3世Alexander IIIによって皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)との〈ベネチアの和議〉を確認するため開催。…

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