第82代の天皇(在位1183~98)。名は尊成(たかひら)。高倉(たかくら)天皇の第4皇子。母は坊門信隆(ぼうもんのぶたか)の女(むすめ)殖子(しょくし)(七条院)。源平争乱の始まった年、治承(じしょう)4年7月14日誕生。1183年(寿永2)、安徳(あんとく)天皇が平氏に擁せられて都落ちしたため、4歳で践祚(せんそ)した。当時は後白河(ごしらかわ)法皇が朝廷の実権を掌握しており、やがて平氏が倒れて鎌倉幕府が成立したのちもしばらくは法皇による院政が続いた。1192年(建久3)法皇が没するに及んで、後鳥羽天皇の親政となったが、政務は、初めは関白(かんぱく)九条兼実(くじょうかねざね)の、ついで第1皇子為仁(ためひと)の外祖父(がいそふ)となった土御門通親(つちみかどみちちか)(源通親)のみるところであった。1198年、天皇は為仁親王(土御門天皇)に位を譲り、上皇として院政を開始した。時に19歳。上皇はしだいに不羈奔放(ふきほんぽう)の性質を発揮するようになり、1202年(建仁2)に通親が没して以後は専制君主として君臨、院政は順徳(じゅんとく)・仲恭(ちゅうきょう)両天皇の代まで及んだ。上皇は水無瀬(みなせ)(大阪府三島郡島本町)や宇治(うじ)(京都府宇治市)などに華麗な離宮を営み、あるいは各地へしばしば遊山旅行に出かけ、熊野参詣(さんけい)は10か月に一度という頻度であった。その途次で催された歌会の懐紙が熊野懐紙とよばれて伝存している。また上皇は文武にわたって多芸多能であった。歌人としては当代一流であり、『新古今和歌集』の撰定(せんてい)には自ら深く関与し、琵琶(びわ)、箏(そう)、笛、蹴鞠(しゅうきく)、囲碁、双六(すごろく)にも打ち込んだ。また流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、相撲(すもう)、水泳など武芸を好み、北面(ほくめん)に加えて西面(さいめん)の武士を置き、さらには自ら盗賊追捕(ついぶ)の第一線に加わったこともあった。この間上皇は、意のごとくならない幕府への反感をしだいに募らせていった。1208年(承元2)に詠まれた「奥山のおどろが下もふみわけて道ある世ぞと人に知らせん」という歌にも、上皇のそうした心情を読み取ることができる。またその前年、上皇は最勝四天王院(さいしょうしてんのういん)を建立したが、これは幕府を調伏(ちょうぶく)、呪詛(じゅそ)するためであったと伝えられる。
1219年(承久1)鎌倉の将軍源実朝(さねとも)が横死すると、幕府はかねての黙契によって、後継将軍として上皇の皇子の東下を要請したが、上皇はこれを拒絶した。幕府の瓦解(がかい)を期待したのである。一方上皇は、寵姫(ちょうき)伊賀局(いがのつぼね)の所領である摂津国長江(ながえ)(兵庫県尼崎(あまがさき)市)、倉橋(くらはし)(大阪府豊中(とよなか)市付近)両荘(しょう)の地頭の廃止を要求したが、幕府に拒否された。かくして上皇は、順徳天皇や近臣たちと謀って、武力による討幕計画を推進することになった。承久(じょうきゅう)の乱である。21年5月14日、上皇は流鏑馬ぞろいと称して兵を召した。北面・西面の武士をはじめ、畿内(きない)・近国の武士が召しに応じ、また在京中の幕府御家人(ごけにん)たちも、さらには幕府の京都守護の一人源親広(ちかひろ)も院方に加わった。翌日、召しに応じなかったいま一人の京都守護伊賀光季(いがみつすえ)を討つと同時に、上皇は諸国に幕府執権北条義時(よしとき)の追討令を発した。しかし、上皇方の予想を完全に裏切って、東国武士で追討令に応じる者はなく、逆に北条泰時(やすとき)らに率いられた幕府軍が大挙京都に攻め上ってきた。その結果、追討令発布からわずか1か月後には、京都は幕府軍に占領され、上皇は鳥羽殿に幽閉され、7月に出家したのち、隠岐(おき)の島へ配流された。法名は金剛理あるいは良然。延応(えんおう)元年2月22日、配所の苅田(かった)で死去。60歳。御陵は島根県隠岐郡の海士(あま)町陵、京都市左京区大原来迎院(らいごういん)町の大原陵。
[山本博也]
文学の面においては、前記『新古今和歌集』撰集(せんしゅう)に際し、院自ら撰者らとともに撰集の作業に加わり、序・詞書(ことばがき)も院の立場で記し、勅撰集中もっとも複雑長期にわたる成立の歴史を有するものとなる。院は都でも隠岐(おき)でも歌合(うたあわせ)を催し(老幼五十首歌合、千五百番歌合、元久詩歌合(げんきゅうしいかあわせ)、遠島(えんとう)御歌合、後鳥羽院御自歌合など)、都での華やかな新古今歌風に対し、隠岐では「軒は荒れて誰(たれ)かみなせの宿の月過ぎにしままの色やさびしき」などのように、懐旧の念による切実な望郷の心情のみられる歌が多い。家集に『後鳥羽院御集(ぎょしゅう)』『遠島御百首』、秀歌撰に『時代不同歌合』がある。歌学書としては『後鳥羽院御口伝(おんくでん)』があり、藤原定家との和歌観の相違を知ることができる。日記には『後鳥羽院宸記(しんき)』がある。
[後藤重郎]
『保田与重郎著『後鳥羽院』(1939・思潮社)』▽『小島吉雄著『新古今和歌集の研究 続篇』(1946・新日本図書)』▽『樋口芳麻呂著「後鳥羽院」(『日本歌人講座 中世の歌人Ⅱ』所収・1961・弘文堂/増補版・1968・弘文堂新社)』▽『樋口芳麻呂著『後鳥羽院』(1985・集英社)』▽『永原慶二編『人物・日本の歴史 第4巻』(1966・読売新聞社)』▽『京都市編『京都の歴史 第2巻』(1971・学芸書林)』▽『丸谷才一著『日本詩人選10 後鳥羽院』(1973・筑摩書房)』▽『西下経一・実方清編『増補国語国文学研究史大成7 古今集 新古今集』(1976・三省堂)』▽『久保田淳監修『和歌文学大系24 後鳥羽院御集』(1997・明治書院)』
第82代に数えられる天皇。在位1183-98年。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。母は坊門信隆の娘殖子(七条院)。1183年(寿永2)平氏が安徳天皇を伴って都落ちした後,祖父後白河法皇の詔によって践祚。践祚の後も後白河法皇が院政を行ったが,92年(建久3)法皇の没後は,法皇と対立していた関白九条兼実が実権を握った。源通親ら法皇の旧側近はこれと対立し,96年通親は策謀によって兼実を失脚させ政権を握った。98年後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子為仁(土御門天皇)に譲位,上皇として院政をはじめ,1221年(承久3)まで,土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行った。院政開始後も通親が実権を持っていたが,1202年(建仁2)通親が没して後は後鳥羽上皇の独裁となった。上皇は貴族間の対立を克服し,すべての貴族が上皇を補佐する体制の確立を図り,通親に抑えられていた九条家一門などをも重用した。上皇はまた将軍源実朝との関係を密にし,上皇の主導の下に朝幕の融和を進め,生母の弟である坊門信清の娘を実朝の妻として鎌倉に下した。上皇は水練,相撲,狩猟などをたしなみ,刀剣を製作,鑑定し,西面の武士を置いたりしたが,これらは討幕のためではなく,武者の世には帝王にも武芸のたしなみや軍事力が必要だと考えたためである。
朝幕関係は最初は円滑であったが,実朝は実権を持たず,執権北条氏は上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すのを懸念し,しばしば上皇と対立した。そのため両者の関係はしだいに悪化し,1219年実朝が殺されると上皇はついに討幕を決意した。実朝に子がなかったため,幕府は上皇の皇子を将軍に迎えようとし,内約も交わされていたが,実朝の死によって幕府の瓦解を望む上皇は,皇子の東下を許さず,かえって摂津国長江・椋橋両荘の地頭の改補を幕府に命じた。幕府はこれを拒み,上皇との対立はさらに深まった。結局頼朝の遠縁に当たる九条頼経が鎌倉に下ったが,上皇はこれにも不満で,討幕計画を進め,21年執権北条義時追討の宣旨を発して挙兵,承久の乱がおこった。しかし幕府軍の前に上皇方は完敗した。上皇は出家(法名は金剛理,あるいは良然)の上に隠岐に流され,18年の配所生活の末,同地で没した。御陵は京都市左京区の大原陵と隠岐の海士町陵。朝廷は上皇に顕徳院の諡(おくりな)を贈ったが,上皇の怨霊出現のうわさがあり,42年(仁治3)あらためて後鳥羽院と追号した。
上皇は和歌に秀で,和歌所を置き,《新古今和歌集》編纂にあたった。また蹴鞠,琵琶,奏箏などの芸能にもすぐれていた。上皇は多数の所領を持ち,豊かな財力によって各地に院御所を造った。水無瀬,鳥羽などにはとくに壮麗な離宮を営んだ。社寺参詣も多く,紀伊の熊野への参詣は,約30回に及んだ。著書には《新古今和歌集》のほか,《後鳥羽院宸記》《世俗浅深秘抄》《後鳥羽院御集》《遠島御百首》《後鳥羽院御口伝》《無常講式》がある。
執筆者:上横手 雅敬
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(上横手雅敬)
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1180.7.14~1239.2.22
在位1183.8.20~98.1.11
高倉天皇の第4皇子。名は尊成(たかなり)。母は藤原信隆の女七条院殖子。1183年(寿永2)平氏が安徳天皇とともに都落ちしたため,神器のないまま践祚(せんそ)。当初は祖父の後白河法皇が院政を行っていたが,92年(建久3)法皇の没後は九条兼家,96年に兼家が失脚すると源通親が実権を握った。98年土御門(つちみかど)天皇に譲位して院政を始め,1202年(建仁2)通親の没後は独裁化した。西面の武士や和歌所を設置して文武両道の振興をはかった。また多数の院領荘園を基礎とする財力によって水無瀬(みなせ)・鳥羽・宇治などに離宮を造営し,熊野に28度も参詣して権威を示した。鎌倉幕府に対しては外戚坊門信清の女を源実朝の妻とするなど公武の融和に努めたが,実朝暗殺後は皇子を将軍として迎えたいとする幕府の要望を拒んで倒幕に傾き,21年(承久3)挙兵したが完敗(承久の乱)して出家。隠岐島に配流となり,同地で没した。歌人としても優れ,「新古今集」を勅撰し,配流後もみずから追加・削除を行った。
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…政権所在地による時代区分の一つ。鎌倉に幕府があった時代。室町時代と合わせて中世と呼ぶことも多い。終期が鎌倉幕府の滅亡した1333年(元弘3)であることに異論はないが,始期は幕府成立時期に諸説があることと関連して一定しない。ただし1185年(文治1)の守護・地頭の設置に求める説が最有力であり,92年(建久3)の源頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は支持を失っている。しかし鎌倉時代を理解するには,少なくとも80年(治承4)の頼朝挙兵にさかのぼって考えることが必要である。…
…鎌倉初期の歌人,文人。中世隠者の代表的人物の一人。法名蓮胤(れんいん)。京都下鴨神社の禰宜鴨長継の次男。7歳で従五位下となり二条天皇中宮高松院の北面に伺候するなど恵まれた幼少期を過ごしたが,1173年(承安3)19歳のころ父(35歳)を失って以後曲折多い生涯を送った。芸術的才能に富み,和歌は若くより俊恵主宰の結社〈歌林苑〉最末期の会衆に加わり,琵琶は楽所預中原有安に学び,ともに熱心に指導をうけた。81年(養和1)《鴨長明集》を自撰。…
…後鳥羽天皇の建久2年(1191)3月に宣下された二つの公家新制の総称。まず22日に全17条(I令)が宣下され,6日後の28日に全36条(II令)が宣下された。…
…1221年(承久3)後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げ,逆に幕府軍に大敗,鎮圧された事件。
[前史]
幕府成立の当初に厳しい対立・抗争を展開した公家・武家両勢力も,その後相対的には,融和・安定の関係へ向かいつつあるかに見えた。しかし,鎌倉殿源頼朝の晩年から頼家嗣立期には,源通親,丹後局の策謀によって親幕派勢力が京都政界から放逐される事件が起こり,幕府内部でも頼家と御家人,有力御家人相互間の対立・抗争が表面化した。…
…鎌倉初期,後鳥羽院が編纂させた勅撰和歌集。20巻。略して《新古今集》ともいう。巻頭に仮名序,巻尾に真名序を付し,春,夏,秋,冬,賀,哀傷,離別,羇旅,恋,雑,神祇,釈教に分類され,すべて短歌形式の歌で長歌,旋頭歌などの雑体は含まない。流布本で1979首を収める。八代集の最後に位置し,《万葉集》《古今和歌集》と並ぶ古典和歌様式の一典型を表現した歌集と評価されている。撰者は源通具,藤原有家,藤原家隆,藤原定家,藤原雅経。…
…1201年(建仁1)6月,後鳥羽院が30人の歌人に100首ずつ詠進させた〈院第三度百首〉を結番した最大規模の歌合で,一応の判進は翌年の末ころか。作者は左が後鳥羽院,藤原良経,慈円,宮内卿,小侍従等,右が釈阿(俊成),藤原定家,同家隆,寂蓮,俊成卿女等,当代の有力歌人を網羅している。判者は院,釈阿,良経,定家,慈円,顕昭等10人で,150番ずつ分判している(源通親は死亡のため無判)。良経は漢詩,院と慈円は判歌で判するなど,判の形式も多様である。…
…中世初期の歌人。〈ていか〉ともよばれる。父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経(寂超)の妻となり隆信を生み,のち俊成の妻となった。兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。 定家は14歳のとき赤斑瘡,16歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。19歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。この美に拠って86年(文治2)和歌革命を行い(《二見浦百首》),天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。…
…室町時代の連歌。1巻。後鳥羽院の水無瀬の廟に奉納するために,宗祇とその高弟の肖柏,宗長を連衆(れんじゆ)として,1488年(長享2)正月22日の院の月忌に山城国山崎で張行された〈賦何人連歌(ふすなにひとれんが)〉の通称。宗祇の発句〈雪ながら山もとかすむ夕かな〉および宗長の挙句〈人をおしなべみちぞただしき〉は,それぞれ《新古今和歌集》所収の院の〈見わたせば山もと霞む水無瀬河夕は秋となに思ひけむ〉(巻一),〈おく山のおどろがしたもふみわけてみちある代ぞと人に知らせむ〉(巻十七)を本歌とする。…
…大阪府三島郡島本町広瀬に鎮座。後鳥羽天皇,土御門天皇,順徳天皇をまつる。社地は後鳥羽上皇の離宮水無瀬殿の跡。…
…鎌倉幕府第3代将軍。歌人。1192年8月9日源頼朝と北条時政女政子の次男として鎌倉に生まれた。幼名を千幡(万)(せんまん)という。父頼朝の死後征夷大将軍に補任された兄頼家が廃されたため,1203年(建仁3)9月征夷大将軍の職を継いだ。早くから京の文化にあこがれ,04年(元久1)後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とした。院政を執る後鳥羽上皇は実朝のこうした性向を利用して鎌倉幕府を制御しようとし,実朝もこれに応ずる意志をいだいていた。…
※「後鳥羽天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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