日本歴史地名大系 「谷地組」の解説
谷地組
やちぐみ
上川場村は寛文郷帳によると田方一六八石余・畑方三八〇石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)真田領村高書上控では高二千四九四石余。この増加は沼田藩真田氏によるいわゆる拡大検地の結果で、取立ても厳しく、沼田藩領の村は疲弊したと伝える。上川場村も真田氏改易直後の天和元年(一六八一)一二月幕府代官所に救済願(川場村教育委員会保管)を出しているが、それには「当年之儀度々之大風ニ而、諸作無之候所に、御検見引一割五分程の御引ケニ而御座候、其上御用木出人足六月より十一月迄、屋なミに出し申候扶持分にはこびつくし申候、然に御年貢御取立之次第、定代官ニ加代官御差添御催促之上、屋並に屋さがしを被成、種物あわひへ迄御取立、納高に被成候御事」「右之御取立ニ御座候故、只今迄ハあわひへのぬか、はらびのそゝめを被下、命たすかり申候所に、もはや餓死ニて四拾五人死申候」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報