貫庄(読み)ぬきのしよう

日本歴史地名大系 「貫庄」の解説

貫庄
ぬきのしよう

現小倉南区南東部にあった宇佐宮領庄園。「宇佐大鏡」によると、貫庄は宇佐宮の「本御庄十八箇所」の一。もともと庄内三三町七段は公領であったが、天喜二年(一〇五四)に宇佐宮領上毛かむつみけ郡一五町六段三〇〇歩・宇佐郡五町八段六畠などと交換し、立券したという。加えて同書には用作二町五段と「国々散在常見名田」の「貫入田」一四町七段三〇代がみえる。建久八年(一一九七)の豊前国図田帳写(到津文書/鎌倉遺文二)に宇佐宮領として貫庄八〇町とある。鎌倉初期とみられる弥勒寺喜多院領注進状(石清水文書/大日本古文書四―二)には「貫勝国六丁」とみえる。庄官では宇佐宮から派遣された弁済使の存在が知られ、庄内には弁済使職に付随する弁分名田が設定され(文保元年八月二五日「鎮西下知状」黒水文書/鎌倉遺文三四)、宇佐宮の神事では夫役一〇人を負担した(応永三〇年四月日「宇佐宮行幸会等諸役支配注文」矢野文書/大分県史料二)。宇佐宮神領次第案(到津文書/大分県史料三〇)に引用された仁治二年(一二四一)の散田帳によると貫庄は一〇名で構成され、うち関係史料から今吉いまよし元重もとしげ時重ときしげ二郎丸じろうまる田中たなか畠中はたなか別府・小市丸の八名が確認される。今吉名には宇佐宮の御薗みそのが設置され、宇佐宮への年中御菜料を負担する一方で(年未詳「宇佐宮灯油田并御菜免田畠屋敷坪付」永弘文書/大分県史料四)、宇佐宮の御祭御供菓子を負担した(長禄二年五月二二日「益永通輔注進状案」同上)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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