改訂新版 世界大百科事典 「賀陽氏」の意味・わかりやすい解説
賀陽氏 (かやうじ)
備中国賀夜(かや)郡(現在の岡山県総社市東部,岡山市西部,上房郡吉備中央町南部,高梁市北東部)を本貫地とする古代よりの名族。765年(天平神護1)正月,賀陽臣小玉女が外従五位下に叙して勲六等を授けられ,同年6月に一族12人とともに朝臣の姓(かばね)を賜った(《続日本紀》)。859年(貞観1)11月には従五位下に叙せられた賀陽朝臣姑子の名がみえ(《日本三代実録》),加夜国造家の女が早くから采女(うねめ)または女官として出仕したことをしのばせる。賀陽は賀夜または加夜とも書き,中世末以降は一般に〈かよう〉と訓じた。862年には備中国賀夜郡の人左大史正六位上賀陽朝臣宗成,従六位下備中権博士賀陽朝臣真宗の2人が左京職に隷していた。宗成はのちに備後介,安房守を歴任したが,賀陽氏のなかに中央の官人となったり,学者となったもののあったことがわかる。《扶桑略記》には893年(寛平5)賀陽豊仲が賀夜郡大領であった記事があるから,本貫地では郡司層として力をもち続けていたらしく,加夜寺は賀陽氏一族の氏寺であったという。賀陽氏が備中吉備津彦神社(現,吉備津神社)の神主として初見するのは1070年(延久2)で(《続左丞抄》),中世を通じて神官を世襲し,栄西は賀陽貞政の曾孫として生まれた。近世にもなお4家が吉備津神社の神官職を世襲していたが,しだいに衰退して現在は同神社との関係は絶えている。
執筆者:大石 直正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報