赤木名方(読み)はつきなほう

日本歴史地名大系 「赤木名方」の解説

赤木名方
はつきなほう

近世、笠利かさん間切の東部を中心に置かれた行政区分。「あかきなほう」ともいう。現在の笠利町の東部にあたるが、笠利方の南部を挟んで笠利湾沿いの村をも含んでおり、その一帯は現龍郷たつごう町に属している。天明元年(一七八一)赤木名方の与人は鹿児島の慶事のため渡海しているが、その帰途ひぎや間切の古仁屋くにや(現瀬戸内町)に着岸したため西芝にしーば村湊(現同上)に廻船、さらに屋喜内やきうち(現宇検村)でも滞留し、ようやく津代つしろ湊に到着したという(大島代官記)。「大島私考」によれば、笠利間切が広大であるために置かれた区分で、村数一〇ヵ村、与人と間切横目が各一名配された。方の高頭一千七一五石余、うち畑高六升六合余が蔵地、同二斗七升五合余が仮屋敷、上木高は三升八合余あり、田高は一千五九七石余で納米六八四石余、塩浜高六石六斗二升二合余で納米二石三斗六升五合、畑高九六石余で納大麦二六石余・納小麦一七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む