笠利間切(読み)かさんまぎり

日本歴史地名大系 「笠利間切」の解説

笠利間切
かさんまぎり

大島の北東部に位置する。大島七間切の一つで、笠里などとも記される。琉球王国の地方行政単位で、近世にも継承され、笠利方赤木名はつきな方の二方に区分されていた。現在の笠利町の全域と龍郷たつごう町の東端部にわたる地域。

源平合戦に敗れた平家の落人が喜界きかい島から大島に渡海して、うち平有盛は浦上うらがん(現名瀬市)を拠点に名瀬なぜ間切・笠利間切をおさえたと伝える(安永二年「平家没落由来記」奄美大島史)。世宗三二年(一四五〇)朝鮮人四人が臥蛇がじや(現十島村)に漂着し、うち二人は薩摩人のものとなったが、ほかの二人のうち万年は漂流後に臥蛇島人によって「加沙里島」に移され、たまたま加沙里島に来ていた琉球人の甘隣伊伯也貴によって琉球に連れていかれ、中山王に献上されている。もう一人の丁禄もまた漂流から三ヵ月後に来た琉球人の宝元之によって銅銭で買取られ、中山王の奴一人と交換し、万年と同居させたという(「李朝実録」端宗元年五月丁卯条)。加沙里島は笠利と考えられ、笠利が琉球王国に属し、琉球人の来島が繁く行われていたことが想定できる。「おもろさうし」第一に「聞得大君ぎや 天の祈り しよわれば てるかはも 誇て おぎやか思いに 笠利 討ちちへ みおやせ 又 鳴響む精高子が」と謡われており、奄美を征服する戦勝予祝のおもろとされるが、そこで笠利が対象とされているのは、少なくとも北大島の中心であったからであろう。同書第一〇に「又喜界の浮島 喜界の盛い島 浮島にから 辺留笠利かち」とあり、ノロの頭おしかきが奄美から首里に渡海する途次、当地に立寄っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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