越中町
えつちゆうまち
江戸期の町人町。戦国期、南条氏は打吹城に城代を派遣して倉吉を支配したとされるが、当地に城代山田越中守の居館があったのが町名由来と伝える。東の西岩倉町から西へ延び、南西へ湾曲する通りの両側町。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)に町名がみえ、竈数四五、間数一〇一間余。同絵図によると、北を限る鉢屋川は町の西端で通りに接合し、両側町南側の西端のみ広瀬町に接する。
越中町
えつちゆうまち
[現在地名]金沢市横山町
明治五年(一八七二)それまでの御小人下町を改称して成立。横山町三番丁の南に位置し、横山町の通りに並行する。南は御小人町、西は材木町。江戸時代には北・東を横山家下屋敷に囲まれた武家地であった。万治三年(一六六〇)加賀藩は加越能三ヵ国より三〇〇人の長柄御小人を召抱えたが(改作所旧記)、うち越中出身者が当地を居住地としたために生じた町名という(金沢古蹟志)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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