加賀藩(読み)かがはん

改訂新版 世界大百科事典 「加賀藩」の意味・わかりやすい解説

加賀藩 (かがはん)

領主は外様大名前田氏。城地は加賀国金沢。加賀,能登,越中3ヵ国の大部分近江国に102万5020石余を領知した大藩。1581年(天正9)藩祖前田利家は織田信長から能登国を給知されて七尾に居城し,83年に羽柴秀吉から加賀国北半を加増されて金沢城に入った。越中の佐々成政征伐のあと,長子利長とともに越中国を加封され,1600年(慶長5)2代利長は徳川家康から加賀国南半を増給された。ほかに1595年(文禄4)から近江国に二千数百石を領し約120万石に及んだ。その後1639年(寛永16)に富山藩10万石,大聖寺藩7万石を分立した。この間,徳川氏とは姻戚関係を深めるなどで対立の危機を切り抜けながら従属度を強め,〈一番大名〉の地位を保った。家臣団の禄制は1万石以上が12家あり,最高は5万石であった。分散相給の地方知行制であるが,改作法で事実上の俸禄制となった。家格は八家(はつか),人持,平士,与力,足軽の順で,職制は17世紀末期にほぼ固定し,中枢機関は年寄,家老,若年寄であった。

 藩政の主要な経過は以下のとおりである。入封後,検地により石高制・米納制をとり,逃散防止に努め,慶長~元和期に総検地を行い,また十村(とむら)制度を設け,鉱山開発,城下町の拡大・整備をはかった。寛永期にとくに新田開発と増免を行ったが,給人・百姓ともに疲弊し,1651-56年(慶安4-明暦2)に改作法を施行して藩制を確立した。17世紀後半,5代綱紀の治政下に藩制の整備を果たし,書物収集,工芸育成などに努めたので〈政治は一加賀,二土佐〉〈加賀は天下の書府〉と評された。しかし延宝期には財政均衡を失い,天和の問屋立て,93年(元禄6)の切高仕法など農・商政策の手直しを行った。6代吉徳の享保以降は厳しい倹約策をとるが,それを担当した大槻朝元(伝蔵)が弾劾されて加賀騒動が起こった。1755年(宝暦5)の銀札発行は金沢町民の騒動を惹起して失敗し,85-86年(天明5-6)の重教による綱紀粛正をめざした勝手方親裁も頓挫した。11代治脩(はるなが)は92年(寛政4)明倫堂,経武館の文武両学校を開き,1802年(享和2)に高方などの規則を正す仕法を行ったが,19世紀初期の新開・増免策は苛斂に傾き,十村役もいったん廃止した。産物方の国産奨励策もはかるが所期の成果は得られなかった。そして37年(天保8)から藩政改革が行われ,借財方,高方,収納方,地盤方,物価方など財政を中心とした仕法によって,農民の持高の懸隔を縮小するなど一定の効果があった。嘉永と文久期に改革派黒羽織党が執政した。第1次は冗費節約,綱紀粛正,抑商策を強く行い,銭屋五兵衛疑獄事件が起こった。第2次は産物集会所設置,海防策などを行い,64年(元治1)に寡勢の尊王攘夷派を処刑して壊滅させた。藩論は圧倒的に佐幕で,14代慶寧(よしやす)は領内自立策をとり,西洋式軍制採用,福祉事業などを行うが,中央情勢に立ちおくれて戊辰の役でかろうじて賊軍の名を逃れた。69年(明治2)金沢藩,71年金沢県となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加賀藩」の意味・わかりやすい解説

加賀藩
かがはん

江戸時代、加賀(石川県南部)、越中(えっちゅう)(富山県)、能登(のと)(石川県北部)3国にまたがる前田氏の所領。外様(とざま)藩。金沢藩ともいう。1583年(天正11)前田利家(としいえ)が能登23万石のほか、新たに石川、河北(かほく)2郡を豊臣(とよとみ)秀吉から与えられたことに始まる。その後、能美(のみ)、江沼(えぬま)2郡と石川郡松任(まっとう)4万石を除く加越能3国にわたる82万石余の大名となった。その子利長(としなが)は、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに徳川方(東軍)として、小松城、大聖寺(だいしょうじ)城を攻撃し、西軍に対し前田氏東軍参加という心理的衝撃を与えた功により、119万2760石(寛永(かんえい)11年朱印状)の大大名となった。1639年(寛永16)3代藩主利常(としつね)は長子光高(みつたか)(4代藩主)に80万石を与えて本藩を相続、次子利次(としつぐ)に越中国婦負(ねい)郡10万石、三子利治に加賀国江沼郡7万石を与えて富山(とやま)藩、大聖寺藩を分藩、自らは越中新川(にいかわ)郡22万石の養老領をもって小松城に隠居した。1658年(万治1)利常の死により養老領は本藩領となり、102万5020石の大藩として藩末に至った。いわゆる「加賀百万石」である。

 17世紀なかば過ぎに改作法(かいさくほう)が施行された。目的とするところは年貢の増徴であるが、農政の基本として藩体制の確立に役だった。以降、加賀藩は主穀農業を藩是(はんぜ)とした。18世紀に入ると藩体制は動揺した。財政の窮乏により有名な「加賀騒動」が起こり、また、百姓一揆(いっき)、打毀(うちこわし)、騒擾(そうじょう)などが頻発した。加賀藩の被差別部落が法的に設定されたのも、このころである。財政・農村政策のうえから産業政策が推進されたが、藩是の主穀農業により失敗し、財政窮乏、騒擾は廃藩置県まで続いた。文化面では前田利常が学問、工芸を奨励、5代藩主綱紀(つなのり)も学者、文人を招き、尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)を創置し、細工所(さいくしょ)を拡充して王朝・桃山工芸を伝承、元禄(げんろく)工芸の一大コレクションである百工比照(ひゃっこうひしょう)を完成した。以後の文化政策にはみるべきものはないが、12代藩主斉広(なりなが)の竹沢御殿(たけざわごてん)と兼六園(けんろくえん)、13代藩主斉泰(なりやす)の巽(たつみ)御殿(成巽閣(せいそんかく))がある。藩御用職人の最後の仕事であった。

[田中喜男]

『『新編物語藩史 第6巻』(1976・新人物往来社)』『田中喜男著『加賀百万石』(教育社歴史新書)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「加賀藩」の解説

かがはん【加賀藩】

江戸時代加賀(かが)国石川郡金沢(現、石川県金沢市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。加賀国、能登(のと)国越中(えっちゅう)国3ヵ国の大部分と近江(おうみ)国に102万5020石を有した大藩。「加賀百万石」と称され、外様でありながら、御三家に準ずる待遇を受けた。藩校は明倫堂(めいりんどう)(文学校)、経武館(けいぶかん)(武学校)。1581年(天正(てんしょう)9)に、藩祖前田利家(としいえ)織田信長(おだのぶなが)から能登1国を与えられたのが始まりで、その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から83年、85年と加増された。その子利長(としなが)は1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで徳川方についてさらに加増され、120万石に及んだ。その後、39年(寛永(かんえい)16)に3代藩主利常(としつね)が小松に隠居した際、次男利次(としつぐ)に富山藩10万石、3男利治(としはる)に大聖寺(だいしょうじ)藩7万石を分封(ぶんぽう)、加賀藩は103万石弱となった。以後その石高で明治維新まで14代が続いた。利常と5代綱紀(つなのり)は学問や工芸を奨励、利常のときにつくられた池と数寄屋は、12代斉広(なりなが)、13代斉泰(なりやす)の時代に大規模に造営され、回遊式庭園の兼六園(けんろくえん)が完成した。また綱紀は古今の和漢書を集め、尊経閣文庫(そんけいかくぶんこ)をつくった。1871年(明治4)の廃藩置県で金沢県となった。その後、大聖寺県、さらに新川(にいかわ)県と合併して旧3国に広がる石川県を構成したが、83年に越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県域が確定した。◇金沢藩ともいう。

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旺文社日本史事典 三訂版 「加賀藩」の解説

加賀藩
かがはん

江戸時代,加賀・能登・越中3国を領した外様藩。藩主前田氏。城下町金沢
藩祖前田利家は豊臣秀吉の北陸平定に伴い加賀に入国。1581年能登,'85年越中を領有。その子利長は関ケ原の戦いで徳川家康に属し加増され,120万石となった。1639年3代利常は隠居するにあたり,2男利次に富山10万石,3男利治に大聖寺7万石をそれぞれ分与,明治維新に至った。

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デジタル大辞泉プラス 「加賀藩」の解説

加賀藩

加賀国、金沢(現:石川県金沢市)を本拠地とし、加賀・能登・越中国の大部分と、近江国の一部を領有した外様の大藩。藩主は前田氏。「加賀百万石」と称されるが、藩祖前田利家時代の最大領地は120万石にも及んだ。その後3代藩主利常の時代に次男、三男に領地を分封、以後は明治維新に至るまで102万5000石余を領有した。兼六園、尊経閣文庫などが有名。

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百科事典マイペディア 「加賀藩」の意味・わかりやすい解説

加賀藩【かがはん】

金沢藩

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「加賀藩」の解説

加賀藩
かがはん

金沢藩(かなざわはん)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加賀藩」の意味・わかりやすい解説

加賀藩
かがはん

金沢藩」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の加賀藩の言及

【改作法】より

…加賀藩で1651年(慶安4)から56年(明暦2)にかけて行われた農政を中心とする藩政改革の名称。5代前田綱紀の初年,隠居の利常(3代)が親裁して,寛永期から問題化していた給人・百姓の窮乏の解決のために,藩庫の米銀を百姓に貸与して他借を禁じ,村ごとに免相(めんあい)を一定して給人の収納免も平均化し,蔵宿を設置して給人の年貢米の収納・販売を一手に担当させ,また算用場奉行―郡奉行・改作奉行―十村(とむら)の吏僚的農政機構に農民支配を一元化して地方知行制を形骸化した。…

【加賀国】より

…83年,羽柴秀吉が越前の柴田勝家を滅ぼしたとき,前田利家が加賀国北半(石川・河北郡)を加封されて金沢城に入った。他の城将も政治・軍事情勢の推移につれて交代したが,利家を継いだ利長が1600年(慶長5)に徳川方について加賀南部で戦い,加賀一国は前田氏の領有に帰した(加賀藩)。39年(寛永16)に大聖寺藩7万石を分立。…

【勧農】より

…1600年(慶長5)福岡に入部した黒田如水は,その地に二毛作の行われていないのを知って裏作を奨励している。加賀藩では改作法を通して農業技術に関心を寄せ,米麦の品種選択や肥料利用の重要性に着目し,大唐米の試作を十村(とむら)・山廻役に命じ(1669),水田地帯の小百姓には麦種を貸し出して裏作麦の普及につとめ(1675),あるいは麦品種の選択を指示し(同年),さらに肥料の干鰯(ほしか)を重視して他領への移出を禁止している(1669)。初期の農業振興策の特徴は,米納年貢徴収の基礎としての小農生産の確立・発展に主眼があり,したがって稲作の振興に重点があった。…

【十村】より

…加賀藩の農政機関の名称で,他領の大庄屋に相当し,農政実務の上で重要な役割を果たした。通説では1604年(慶長9)郡奉行の下に設置。…

【能登国】より

…93年(文禄2)利家は次男利政に能登国を分与したが,98年(慶長3)隠居したとき,養老領の内に口郡の1万5000石を含めた。翌年利家が死去して再び利政に戻ったが,利政は1600年関ヶ原の戦で東軍に加わらなかったため封を奪われ,能登一国は兄の加賀藩(金沢藩)2代前田利長に加増された。06年,替地によって土方雄久(ひじかたかつひさ)領1万石が能登に散在して置かれた。…

【場末町】より

…場末町に集まった安い労働力を使って木綿縞,布,笠などの特産品生産が展開しており,こうした貨幣収入をあてにした下層民がさらに集まってきた。加賀藩前田家領内でいえば,城下町金沢の相対請地では笠縫,笠骨細工,布生産が行われ,今石動(いまいするぎ)や井波の町続き地では菅笠や絹生産が行われていた。前田家領内の町続き地,場末町での特産品生産は,労働力が得やすかっただけでなく,その町続き地が行政的には町場ではなく農村扱いであったため,年貢諸役の負担が町場より安かったという事情もあって盛んになったといえる。…

【藩専売制】より

…すでに江戸初期から実施されており,代表的なものとして加賀・仙台両藩における塩専売制の実施がある。たとえば加賀藩では,早くから能登半島で揚浜塩田による塩の生産が行われていたが,藩は塩手米との引換えで生産された塩を一手に独占し,他国塩の領内移入を禁止してこれを領内に販売していた。ほかに初期専売の例としては,会津,米沢藩の漆蠟専売制や盛岡藩における紫根専売制などがある。…

【領国貨幣】より

…慶長期における幕府貨幣による幣制統一を反映したものと考えられる。加賀の金貨は加賀藩の金銀吹座において鋳造され,加賀小判・加賀梅輪内小判・加賀梅鉢小判があった。銀貨には加賀・能登・越中の3ヵ国通用銀として花降(はなふり)銀・朱染紙封銀など数多くのものが鋳造された。…

※「加賀藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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