倉吉町(読み)くらよしまち

日本歴史地名大系 「倉吉町」の解説

倉吉町
くらよしまち

現在の倉吉市中央部のやや東側に位置する町場。西から北を湾曲して流れる小鴨おがも川と、南の打吹うつぶき山との間の平野部に形成されている。久米くめ河村かわむら八橋やばせ三郡の中央部にあたり、東伯耆の政治・経済の中心であった。寛永九年(一六三二)の国替によって池田光仲が因伯三二万石を与えられて鳥取に入部、これに伴って藩政期を通じて自分手政治を行った着座家倉吉荒尾氏の陣屋町となる。東伯耆の交通の要衝でもあり、倉吉宿としても栄え、倉吉往来津山往来・八橋往来備中往来の結節点となっていた。藩政期におけるこれら往来の分岐点は不明であるが、現在の西にし町西端に明治一九年(一八八六)に建てられた「久米郡倉吉駅」の道標が残る。天正一一年(一五八三)七月二日の吉川元春・同元長連署宛行状(益田家什書)によると、当時毛利氏家臣であった石見国の益田藤兼に「伯耆国久米郡之内西倉吉五百石」が宛行われている。これが文献上での倉吉の地名の初見とされる。同一二年作の刀剣銘には「伯州倉吉住道祖尾七郎左衛門尉広賀」とあり(倉吉市史)、「伯耆民談記」によれば、天正年中倉吉に居住した鍛冶三田五郎左衛門の二人の息子のうち弟は道祖尾七郎左衛門広賀、兄は三田助之丞広吉と号したという。

〔町場の形成と支配〕

打吹城は伯耆守護山名氏の居城として延文年間(一三五六―六一)に築城されたといわれるが、山麓における集落の形成はこれよりかなりのちのこととされる。初め東麓付近が開かれ、室町末期から戦国期を経て、打吹城の城下として整備されていったらしい(鳥取県史)。「伯耆民談記」は大永四年(一五二四)の尼子経久進攻による打吹城落城後の状況について、「年を追ひて市町、神社、仏閣に到る迄荒廃し、古の繁花跡形もなく」と記すが、弘治―永禄(一五五五―七〇)頃には人家三〇〇余の里邑になっていたという。天正一〇年頃には毛利氏の進攻によって近郷諸城が落ち、各城の町場から商工民が当地に移住して町並を連ね、西部の岩倉いわくら町もこの頃開かれたらしい。この時期は毛利氏一族の吉川元春の支配を経て、羽衣石うえし(現東郷町)を居城とする南条元続が東伯耆三郡を領した頃にあたる。南条氏は打吹城の城代に南条備前守元信・山田越中守・小鴨元清らを任じ(同書)、城と城下の整備に努めたと考えられる。

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦で南条氏が没落し、中村忠一(一忠)に伯耆一国六郡一七万五千石が与えられ、同九年に一族の中村伊豆守栄忠が八橋城(現東伯町)から打吹城に移って一万三千石を領した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報