日本歴史地名大系 「倉吉町」の解説
倉吉町
くらよしまち
現在の倉吉市中央部のやや東側に位置する町場。西から北を湾曲して流れる
〔町場の形成と支配〕
打吹城は伯耆守護山名氏の居城として延文年間(一三五六―六一)に築城されたといわれるが、山麓における集落の形成はこれよりかなりのちのこととされる。初め東麓付近が開かれ、室町末期から戦国期を経て、打吹城の城下として整備されていったらしい(鳥取県史)。「伯耆民談記」は大永四年(一五二四)の尼子経久進攻による打吹城落城後の状況について、「年を追ひて市町、神社、仏閣に到る迄荒廃し、古の繁花跡形もなく」と記すが、弘治―永禄(一五五五―七〇)頃には人家三〇〇余の里邑になっていたという。天正一〇年頃には毛利氏の進攻によって近郷諸城が落ち、各城の町場から商工民が当地に移住して町並を連ね、西部の
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦で南条氏が没落し、中村忠一(一忠)に伯耆一国六郡一七万五千石が与えられ、同九年に一族の中村伊豆守栄忠が八橋城(現東伯町)から打吹城に移って一万三千石を領した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報