近藤恒子(読み)コンドウ ツネコ

20世紀日本人名事典 「近藤恒子」の解説

近藤 恒子
コンドウ ツネコ

昭和期の看護婦 赤十字宣伝部長。



生年
明治26(1893)年

没年
昭和38(1963)年1月26日

出生地
岐阜県岐阜市

本名
シュクセク ツネコ・コンドウ

主な受賞名〔年〕
赤十字最高勲章〔昭和37年〕

経歴
建築業を営んでいた父に連れられ、12歳で中国に渡る。のち、オーストリア・ハンガリー帝国の海軍軍人イワン・シュクセクと知り合い、北京で結婚。大正7年夫の故郷であるスロベニア(のちのユーゴスラビア、現在のスロベニア共和国)のリュブリャナに移り、以後死ぬまで同地に留まった。第二次世界大戦時から約10年間にわたって赤十字の看護婦として活躍し、看護婦長や宣伝部長を歴任。その傍ら、日本とユーゴスラビアの文化交流にも貢献し、300回以上の講演を行って日本文化を紹介するなど、“マダム・ヤパンカ”として親しまれた。昭和37年にはユーゴスラビア赤十字結成20周年記念日に際し、赤十字最高勲章を受章。また、父や夫の中国家具コレクションをスロベニア政府に寄贈、これが基となりユーゴに中国美術館が開設された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「近藤恒子」の解説

近藤恒子 こんどう-つねこ

1893-1963 昭和時代の看護婦。
明治26年生まれ。中国の北京で軍人のイワン=シュクセクと結婚。大正9年夫の祖国ユーゴスラビアに移住。赤十字で看護婦長などをつとめ,1962年赤十字最高勲章を受章。日本とユーゴの文化交流につくし,「マダム・ヤパンカ」とよばれた。1963年1月26日死去。70歳。岐阜県出身。本名はシュクセク=コンドウ=ツネコ。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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