日本歴史地名大系 「道祖土村」の解説 道祖土村さやどむら 栃木県:真岡市道祖土村[現在地名]真岡市道祖土小貝(こかい)川左岸、君島(きみじま)村の南にあり、北部・東部は平坦な水田地帯、南部一帯は八溝(やみぞ)山地西麓の台地で、北流する谷川の谷間を占める。元和三年(一六一七)常陸笠間藩領、その後幕府領などを経て寛文元年(一六六一)旗本江原知行となり、幕末まで続く。元和六年の地詰帳(高松健比古文書)によれば、田一四町六反余・畑屋敷一一町一反余で、名請人五三人は、いずれも左伝次分四一人、作兵衛分一二人の分主百姓で、左伝次は自身で五町二反余、作兵衛も自身で九町六反余をもっている。 道祖土村さいどむら 埼玉県:浦和市道祖土村[現在地名]浦和市道祖土一―四丁目・大東(だいとう)三丁目瀬(せ)ヶ崎(さき)村の東に位置し、洪積台地と沖積低地からなる。南東は大谷口(おおやぐち)村、南は大田窪(だいたくぼ)村。村名は比企郡下八ッ林(しもやつばやし)村(現川島町)の農民で、もと岩付太田氏の臣道祖土氏に由来する説や、道祖神による説などがある(風土記稿)。元和九年(一六二三)の大田窪村御縄打水帳写(浦和市役所行政資料室蔵)に「さいとまへ坂下」とみえるが、田園簿には記載がなく、大谷口村の内に含まれていたという(風土記稿)。元禄郷帳に道祖土村とみえ、高一二二石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報