遠賀郡(読み)おんがぐん

日本歴史地名大系 「遠賀郡」の解説

遠賀郡
おんがぐん

面積:九三・一〇平方キロ(境界未定)
芦屋あしや町・水巻みずまき町・遠賀おんが町・岡垣おかがき

県の北部に位置する。北は響灘に面し、東は北九州市若松わかまつ区・八幡西やはたにし区、南は中間市・鞍手くらて郡鞍手町・宗像市、西は宗像市に接する。郡域の東部を北流してきた遠賀川が響灘に注ぐ。

〔原始・古代〕

郡内の遺跡は玄界灘沿岸部と遠賀川河口部に広がり、ほぼ同じ環境のなかに分布している。旧石器時代では岡垣町の糠塚ぬかづか遺跡と友田ともだ遺跡、水巻町の苗代谷なえしろだに遺跡、遠賀町の天神てんじん遺跡などの低丘陵上で後期のナイフ形石器などが出土。縄文時代では豊富な装身具で知られる芦屋町の山鹿やまが貝塚、岡垣町の榎坂えのきざか貝塚(後期)で貝輪を着装した人骨が出土しており、後期以後に遺跡が増加する点も特徴である。弥生時代には遺跡がさらに増加し、なかでも遠賀川式土器の命名地である水巻町の立屋敷たてやしき遺跡(前期から古墳時代)は重要な遺跡である。当郡はその立地条件から大陸文化を早くから受容しており、岡垣町の元松原もとまつばら遺跡では各種青銅器などが、同町の大坪おおつぼ遺跡(前期から後期)では銅戈が、遠賀町のけいうら遺跡(前期から中世)では銅剣と双口壺が、同町の天神遺跡(旧石器時代から奈良時代)では各種の磨製石器が出土した。また遠賀町のじようこし貝塚(前期から後期)は中期初頭の土器型式命名地である。古墳時代では首長墓の前方後円墳が二つの系譜で出現する。一つは遠賀町の遠賀川河口部で丸山まるやま古墳が四世紀前半に出現し、同町の豊前坊ぶぜんぼう3号墳・同1号墳と継続するが、四世紀末で途絶える。その後、首長墓は大型円墳の芦屋町大塚おおつか古墳で消失する。他方は岡垣町波津はつの沿岸部に磯辺いそべ1号墳・同2号墳と塩屋しおや古墳が四世紀後半から五世紀前半の短期間に存続する。後期には円墳と横穴墓が各地で築造され、とくに岡垣町の汐入しおいり川周辺に群集墳が密集。集落跡では製鉄関連遺物が出土する同町の瀬戸せと遺跡に遠賀町の天神遺跡・金丸かなまる遺跡が隣接しており、五世紀から六世紀までの同族の集落と考えられている。

郡名は「延喜式」民部上、「和名抄」諸本にみえ、文字の異同はないが訓を欠く。古代においては後掲史料にみえる「岡」「遠珂」「塢舸」などの表記から、「おか」と読まれていたことがわかる。筑前国の北東端に位置し、東は豊前国企救きく郡、南は鞍手郡、西は宗像郡に接し、中央部を遠賀川が流れて北の響灘に注ぐ。現在の行政区域ではほぼ北九州市戸畑とばた区・八幡東区・八幡西区・若松区、中間市・遠賀郡に相当すると考えられる。いわゆる神武東征伝承中、「日本書紀」神武天皇即位前紀甲寅年一一月九日条に、日向を出発した神武が筑紫国の「岡水門」に至ったことを伝え(「古事記」神武天皇段は「竺紫の岡田宮」)、「万葉集」巻七に収める歌に「岡水門」が詠まれることから、古くは「岡」一文字で表記し「おか」と読んでいたものが、和銅六年(七一三)五月に諸国の郡里名に好字を付けるようになって以降(「続日本紀」同月二日条)、「遠賀」二文字で表記するようになり、遠賀の表記が確定した後、「おんが」と読まれるようになったと理解される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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