旧国名。筑州。現在の福岡県北西部。
西海道に属する上国(《延喜式》)。古くは筑紫(つくし)国と呼ばれたものが,7世紀末の律令制成立とともに筑前・筑後の2国に分割された。当初は筑紫前(つくしのみちのくち)国と呼ばれ,702年(大宝2)の嶋(志麻)郡川辺里戸籍に筑前国の名が初見される。志麻,怡土(いと),早良(さわら),那珂(なか),席田(むしろた),御笠(みかさ),糟屋(かすや),穂浪(ほなみ),嘉麻(かま),夜須(やす),下座(しもつあさくら)/(しもつくら),上座,宗像(むなかた),鞍手(くらて),遠賀(おか)(後,おんが)の15郡を管し,国衙,国分寺は御笠郡(太宰府市)に所在した。《和名抄》には田1万8500余町とある。
古来その地理的位置から中国大陸や朝鮮半島に対する門戸として重要な役割を果たした。57年には福岡市付近に所在した奴国が後漢に朝貢して印綬を与えられたが,この印は1784年(天明4)志賀島で発見された金印(倭奴国王印)とされる。3世紀には邪馬台国女王卑弥呼に任命された一大率(いちだいそつ)が伊都国(糸島郡)に駐在し,諸国の検察や帯方郡使の応接などに当たったとされる。弥生時代には先進的な文化が発達し,福岡市の板付や春日市の須玖岡本などすぐれた遺跡や遺物に富んでいる。古墳時代にも嘉穂郡の王塚や鞍手郡の竹原などの装飾古墳に見られるような独自の文化が発達し,宗像郡の沖ノ島遺跡は海上交通にかかる祭祀遺跡として有名である。対外交渉が頻繁になるにつれて当国はその重要性を増し,536年那津(なのつ)(福岡市)に官家(みやけ)が修造され,7世紀初頭にはその長官とみられる筑紫大宰(つくしのおおみこともち)が出現した。百済支援のため西征した斉明天皇は朝倉宮(朝倉市)で没したが,那津は支援軍の発進基地であった。663年の白村江(はくそんこう)敗戦後は水城(みずき)(太宰府市,大野城市)や大野城(太宰府市,糟屋郡)などを築いて防衛を強化した。
そのころ筑紫大宰とその管掌組織は内陸の現太宰府市の地に移り,やがて官衙としての大宰府が成立した。政庁の周辺には府学校や観世音寺などが並び,西海道の政治・文化の中心としてみずから〈天下の一都会〉と誇称した。令(りよう)の規定では筑前国は大宰府の直轄とされ,国司は任命されないのが原則であったが,実際には730年前後の筑前守山上憶良をはじめ国司の廃置がくり返され,742年(天平14)に大宰府が一時廃されたときはその機能の一部を代行した。808年(大同3)以降は国司が常置されるが,大宰府との関係から独自の国府は形成されなかったようである。《万葉集》には大伴旅人など大宰府官人の歌を中心に当国に関する歌が多く収められている。対外客館の鴻臚館(こうろかん)は現在の福岡市中央区に置かれたが,9世紀以降は対外貿易の場となり,博多に居留する宋商も少なくなかった。太宰府市では大量の輸入陶磁器や銅銭が発掘されている。869年(貞観11)の新羅海賊の博多津侵入,941年(天慶4)の藤原純友の大宰府襲撃,1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇などは,当国の環境を象徴する事件である。宗像郡を神郡とする宗像大社など延喜式内社は当国に11社あり,香椎(かしい)宮(香椎廟,現福岡市東区)は式外社ながら朝廷から厚い尊崇を受けた。10世紀初頭に菅原道真の廟として創建された安楽寺(太宰府天満宮)は朝野の崇敬を集めて発展し,やがて九州では宇佐神宮と並ぶ大荘園領主となった。
執筆者:倉住 靖彦
鎌倉幕府が成立すると,伊豆国御家人天野遠景が鎮西奉行として大宰府に派遣された。遠景の解任後,武藤資頼が大宰府の現地最高責任者および筑前・肥前の守護として大宰府に下向し,資頼のあと当国守護職は資能,経資,盛経,貞経と代々武藤氏(少弐氏)によって世襲された。資能から経資の代には2度にわたるモンゴル襲来をうけ,博多湾沿岸が主戦場となった。その結果,石築地役,異国警固番役といった博多湾岸防備の課役が九州の御家人に賦課され,武藤氏は当国御家人に対してそれら課役の勤務命令や勤務完了証明書を出している。1285年(弘安8)には弘安合戦(霜月騒動)の余波として岩門(いわと)合戦がおこり,武藤景資以下多数の鎮西御家人が討死した。また永仁年間(1293-99)に鎌倉幕府の出先機関として鎮西探題が博多に設置され,当国とりわけ博多の地位は九州において特に高いものとなった。当国の鎌倉御家人としては合屋氏,白水(いずみ)氏,佐伯氏,野介(のけ)氏,宗像氏,秋月氏,中村氏などがいた。当国内の荘園としては太宰府天満宮(安楽寺)領,香椎社領,宗像大社領,筥崎(はこざき)宮領,宇佐宮領,弥勒寺領などの地方寺社領荘園のほか,怡土(いと)荘(法金剛院領),宇美(うみ)荘(石清水八幡宮領),粥田(かいた)荘(金剛三昧院領),楠橋(くすはし)荘(西園寺家領),三奈木(みなき)荘(東福寺領),感田(かんた)荘(八条院領)などの中央権門領荘園も多く存在した。特に鎌倉後期には幕府による神領興行がなされ,武士の荘園押領の停止(ちようじ)をはじめとする厚い社領保護がなされた。この時期には北条氏も当国内に勢力をのばし,宗像大社,怡土荘,山鹿荘内麻生荘・野面荘・上津役郷,綱別荘内小法師丸名(みよう)・金丸名などが北条氏領化した。このような北条氏の支配強化に反発する九州の守護や御家人層は,鎮西探題北条英時を攻め,1333年(元弘3)5月25日,探題は滅亡した。
建武政権下では少弐貞経が当国守護に補任され,すぐに子の頼尚にかわった。1336年(延元1・建武3)2月宮方の菊池武敏が大宰府を攻め,少弐貞経を自殺させた。その直後に京都を追われた足利尊氏が筑前に到着し,同年3月菊池氏の大軍を多々良浜の戦で破り,大宰府に入った。尊氏は一色範氏を鎮西管領として博多に残し東上した。範氏はたびたび帰京を幕府に願い出たが許されなかった。49年(正平4・貞和5)の足利直冬の下向後,九州は幕府方,宮方,直冬方に3分されたが,直冬は知行宛行・安堵を通して国人層の結集を図り,少弐頼尚も直冬に味方するなど,当国では直冬方が優勢であった。51年(正平6・観応2)ころ,少弐頼尚は守護職を室町幕府から解任され,かわって一色直氏が補任された。53年(正平8・文和2)には宮方の菊池武光が一色直氏を針摺原に破り,宮方が優勢となった。55年11月一色範氏・直氏父子は宮方に追われて長門に逃れた。直冬方の少弐頼尚は直冬の東上後宮方につくが,59年(正平14・延文4)再び武家方につき,守護に復職した。頼尚の出家後,守護職は子の冬資に移ったが,少弐氏一族は南北両朝に分かれて争うなど,その勢力は弱体化した。菊池氏をはじめとする宮方は59年8月,筑後大保原(おおほばる)で少弐頼尚を破り(筑後川の戦),61年(正平16・康安1)少弐冬資を敗走させ,征西将軍宮懐良(かねよし)親王が大宰府に入った。71年(建徳2・応安4)九州探題今川了俊が下向して宮方討伐に着手し,翌72年(文中1・応安5)8月宮方の拠点となっていた大宰府を占領した。75年(天授1・永和1)8月,了俊は守護少弐冬資を肥後水島に誘殺し,みずからが守護となった。了俊は当国内において遵行行為,知行安堵,寺社領の違乱の停止などを行い,特に太宰府天満宮とは深いかかわりをもった。87年(元中4・嘉慶1)ころになると少弐冬資の甥貞頼が了俊にかわって守護に補任される。95年(応永2)8月今川了俊は九州探題を罷免され,京都に召還された。
後任の九州探題には渋川満頼(しぶかわみつより)が任命され,96年博多に下向した。渋川氏は九州経営に努めるが,特に大宰府に本拠を置く少弐氏との競合を余儀なくされ,しだいに局地勢力化していく。また渋川氏一族や被官は1419年の応永の外寇を契機として,頻繁に朝鮮通交を行い,博多商人を基盤として貿易を行った。しかし通交の活発化も一時的なものに終わり,23年には渋川義俊が少弐満貞に敗れ,肥前国に退去せざるをえなかった。没落した九州探題渋川氏にかわって進出してきたのが隣国豊前の守護でもあった周防の大内氏である。25年大内盛見(もりみ)は九州に下向し,少弐満貞を筑前から追った。しかし盛見の上京後,29年(永享1)少弐満貞は菊池氏とともに蜂起した。同年,当国は室町幕府の料国となり,代官として大内盛見が下向してきたが,31年6月盛見は少弐・大友両氏に討たれた。以後,当国支配をめぐって少弐氏と大内氏のあいだで激しい抗争が続いた。幕府は少弐・大友追討のため中国の奉公衆・国人を九州に派遣して大内氏を援助し,33年に少弐満貞が秋月において討たれた。40年幕府は大内持世のとりなしによって追討中の少弐嘉頼を赦免したが,平和は続かず,翌年には大内教弘が少弐教頼,大友持直を攻めている。そしてしだいに幕府権力を背景とする大内氏が優勢となり,ついに当国を守護領国化する。大内教弘は守護代として仁保(にほ)盛安を派遣し,寺社の掌握,軍事力の強化,家臣への知行宛行,段銭賦課,博多の掌握を行い,領国制を整備していった。また当国には幕府奉公衆麻生氏がおり,幕府権力の地方的基盤となっていたが,しだいに大内氏と結びつきを深め,戦国期には大内氏の被官化する。
1467年(応仁1)応仁・文明の乱がおこると,対馬宗氏のもとにいた少弐教頼は東軍に応じ,宗盛直とともに筑前に攻め入ったが,大内氏のために敗死した。69年(文明1)になると東軍の策動によって北部九州の諸豪族が反大内勢力となり,九州から大内勢力を排除した。この結果,対馬にいた少弐頼忠は宗貞国とともに筑前を回復し,みずからは大宰府に入り,貞国に博多を守らせた。少弐氏は家臣への知行宛行・安堵,寺社への寄進,荘園の押領,博多の掌握を行ったが,当国支配の実質的な担い手は代官宗貞国とその被官であった。しかし少弐頼忠は肥前千葉氏討伐をめぐって貞国と不和になり,貞国は対馬に帰った。78年10月頼忠は九州に渡海してきた大内政弘に筑前を追われ,肥前に逃れた。筑前を回復した大内氏は守護代・郡代といった支配機構の整備,軍事力の強化,知行給与の拡大,博多支配の強化といった領国支配の再編を行った。その後も少弐氏は筑前の回復を試みるが,当国においては従来から当国にも所領を有していた大友氏が台頭し,大内氏と争うようになる。1501年(文亀1)には少弐資元,大友親治が大内義興の兵と戦い,32年(天文1)には大内氏と大友氏のあいだに激しい戦闘がおこった。38年室町幕府の仲介でようやく両者は和睦した。また大内氏は博多を拠点として遣明船を数次にわたり派遣している。大内氏の滅亡後,当国は大友氏の支配下に入ったが,秋月氏,筑紫氏のように大友氏に反抗する国人もいた。その後,毛利氏が九州進出をうかがい,69年(永禄12)には大友氏の当国における拠点立花城を落城させた。また78年(天正6)肥前の竜造寺隆信が当国へ侵入し,国人層も多くこれに呼応した。86年には島津氏が当国の大友氏の拠点を攻め,岩屋城は落城したが,豊臣秀吉が大友氏への援軍を派遣したため,島津氏は撤退した。
執筆者:佐伯 弘次
豊臣秀吉は九州平定を完了した1587年6月,箱崎で九州大名の所領配分を行った。筑前国は筑後,肥前の各2郡とも小早川隆景に与えられ,隆景は名島に居城を定めた。このとき戦国時代以来の有力国人領主であった高橋元種,秋月種実は共に日向国に移され,麻生,宗像,原田の諸氏らは小早川の家臣団に編入された。近世の幕開きである。同年秀吉の命で博多が復興されたが,博多は文禄・慶長の2度の朝鮮出兵の兵站基地としての役割を担わされ,貿易港としての地位は長崎にうばわれてしまった。98年(慶長3)隆景の養子秀秋のとき,筑前国はいったん秀吉の直轄領(太閤蔵入地)となったが,秀吉の死後,再び秀秋が領した。
1600年の関ヶ原の戦の論功行賞で,怡土郡西半分(唐津領)を除くほぼ筑前一国が黒田長政に与えられた(福岡藩)。長政は入部するや新城を築き,播磨・豊前出身の商工業者を集めて新城下町を建設し,福岡と名付けた。これと並行して中世以来の商業都市博多の支配を強め,しだいに城下町化していった。他方01年よりの領内の検地によって田畠の生産力と年貢負担者を把握した。そして農村を村と触(ふれ)に組織し,村の庄屋と触の大庄屋を藩政の末端機構として位置づけた。23年(元和9)秋月および東蓮寺の2支藩が成立し,秋月・東蓮寺(のち直方と改む)に城下町ができた。直方藩は77年(延宝5)いったん廃され,88年(元禄1)に再興されたが,1720年(享保5)廃藩となった。また1678年には怡土郡西半の唐津領が没収されて幕府領となったが,1717年にはその一部が豊前国中津に入封した奥平氏に分与された。この間,洞海湾沿岸や怡土・志摩郡海岸で新田が開発され,生産力も高まった。交通路も整備され,陸上では黒崎から飯塚を経て原田(はるだ)に至る六宿(むしゆく)街道(長崎路)ができた。これは参勤交代の西九州大名,長崎へ往来する幕府役人あるいは江戸へ上るオランダ使節の交通路で,ケンペルやシーボルトらもここを往復している。また長崎貿易品の輸送路としても利用された。このほかには黒崎から博多・福岡を通り唐津に至る唐津街道などがある。河川では遠賀(おんが)川の水運が発達し,流域の重要な物資輸送路となった。文化面では貝原益軒が《筑前国続風土記》や《大和本草》を著し,宮崎安貞が《農業全書》を刊行した。1732年未曾有の大凶作に見舞われ多数の餓死者を出した。この享保の飢饉は〈子年の大変〉として長く人々に語りつがれた。鯨油による田の害虫駆除法が考案されたのはこのころともいわれる。18世紀後半以降,農村で特産物の生産が進んだ。南部の上座(じようざ)・下座(げざ)地方で始まった辛子(からし)(菜種)の栽培が全域に広がり,福岡周辺産は岩戸辛子として大坂で声価を高めた。櫨(はぜ)の栽培,蠟の生産が進んだのもこのころで,やや遅れて石炭の採掘が遠賀川流域で盛んとなった。
筑前国はその地理的条件から二つの経済圏に分かれていた。すなわち福岡,博多を中心とする経済圏と黒崎,芦屋を軸とする遠賀川経済圏である。前者では甘木,二日市,姪浜(めいのはま)等の在町が城下町を補完する役割を担っていたが,やがて商品経済の発展によってそれらの在町が城下町をおびやかすようになった。後者では直方,飯塚等が発達し,若松が新しい港町として黒崎,芦屋にとって代わっていった。このような商品生産と流通の発展は農村をますます貧困にし,地主と小作人の対立をあらわにした。また藩財政を困難にし武士の生活を圧迫したので,藩はしばしば藩政改革を行って対処した。文化面では1784年(天明4)に藩校修猷館と甘棠館が設立され,また亀井塾をはじめとして数多くの私塾や寺子屋が作られた。そして徂徠学派の亀井南冥・昭陽父子,国学者青柳種信,洋学者青木興勝らが出た。
開港以後の国政の混乱の中から勤王派が台頭し,1865年(慶応1)三条実美ら5卿が大宰府に移ると各地の勤王志士が大宰府を訪れ,領内でも草莽の志士が輩出した。1868年(明治1)幕府の崩壊によって旧幕領は日田県管地となり,71年7月の廃藩置県で福岡領,秋月領は福岡県,秋月県の,対馬領,中津領はそれぞれ厳原(いづはら)県,中津県の管理となった。同年9月怡土郡の日田県管地は伊万里県管地に改められ,同11月に筑前国一円が合わせられ福岡県となった。明治政府の維新後の政策は農民の大きな願いであった年貢軽減が実現しないばかりか,学制・徴兵制の施行,地券発行,新貨条例発布およびめまぐるしい行政区域の変更で農民を苦しめた。73年嘉麻郡より起こった竹槍一揆はまたたく間に筑前国一円を席巻し,各地の富豪や戸長宅あるいは学校等を襲い,県庁に乱入した。破壊または焼失した家は4590軒に及び,鎮圧後処罰された者は6万4000人に達した。旧筑前国,筑後国および豊前国の大部分を含む現在の福岡県域が確定したのは76年8月である。
執筆者:野口 喜久雄
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福岡県北西部の旧国名。西海(さいかい)道の1国。『延喜式(えんぎしき)』の等級は上国で、遠国に属す。初め筑後国とあわせて筑紫(つくし)国といい、7世紀末の律令(りつりょう)制の成立とともに前後に分割された。分割当初は筑紫前国(つくしのみちのくちのくに)と称したが、のち筑前国となった。怡土(いと)、志麻(しま)、早良(さわら)、那珂(なか)、席田(むしろた)、糟屋(かすや)、宗像(むなかた)、遠賀(おが)、鞍手(くらて)、嘉麻(かま)、穂波(ほなみ)、夜須(やす)、下座(しもつくら)、上座(かみつくら)、御笠(みかさ)の15郡に分かれ、104郷(和名抄(わみょうしょう))が存在した。国府、国分寺は御笠郡(太宰府(だざいふ)市)にあった。古来大陸交通の要衝にあたり、奴(な)国、伊都(いと)国などが成立した。536年(宣化天皇1)那津(なのつ)に宮家(みやけ)が修造され筑紫大宰(つくしのおおみこもち)が置かれたが、白村江(はくそんこう)の敗戦後、内陸に移され大宰府が成立した。荘園(しょうえん)は、怡土郡に怡土荘(法金剛院(ほうこんごういん)領)、那珂郡に博多(はかた)荘(安楽寺領)、鞍手郡に粥田(かゆた)荘(金剛三昧院(こんごうさんまいいん)領)、嘉麻郡に碓井(うすい)荘(観世音寺(かんぜおんじ)領)、夜須郡に秋月(あきづき)荘(箱崎塔院(はこざきとういん)領)などがあった。
鎌倉幕府が成立すると、天野遠景(とおかげ)が鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)として派遣され、ついで武藤資頼(すけより)が守護として入部した。武藤氏は代々守護職を世襲し、大宰府の現地最高責任者である大宰少弐(しょうに)を兼ねた。永仁(えいにん)年間(1293~99)に鎮西探題が置かれ、北条氏一門がこれに任じたが、1333年(元弘3・正慶2)少弐、大友、島津の諸軍に攻められ滅亡した。建武(けんむ)政権が成立すると少弐貞経(さだつね)が守護に任じられ、ついでその子頼尚(よりひさ)にかわった。1349年(正平4・貞和5)足利直冬(あしかがただふゆ)が九州に下向すると、九州では北朝方、南朝方、直冬方に分かれて混乱したが、筑前では直冬方が優勢であった。1361年(正平16・康安1)征西将軍宮懐良(かねよし)親王を奉じた菊池武光(たけみつ)は大宰府を占領し、南朝方が北部九州を制圧した。しかし九州探題今川了俊(りょうしゅん)が九州に下向すると、北朝方が優勢となり、了俊は自ら筑前の守護となった。室町期になると周防(すおう)の大内氏が進出して少弐氏と争ったが、しだいに大内氏の勢力が強くなり、筑前を領国化するに至った。大内氏の滅亡後は、筑前は豊後(ぶんご)の大友氏の支配下に入った。1586年(天正14)島津氏が侵入して大友氏の拠点を攻撃したが、豊臣(とよとみ)秀吉の出兵によって撤退した。
1587年(天正15)九州を平定した秀吉は、小早川隆景(こばやかわたかかげ)に筑前1国および筑後、肥前各2郡を与えた。その子秀秋(ひであき)のとき、その所領は秀吉の直轄領となったが、秀吉の死後ふたたび秀秋に与えられた。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いののち、秀秋は備前に移され、そのあと黒田長政(ながまさ)に怡土郡西半分を除く筑前1国が与えられて福岡藩が成立した。1623年(元和9)長政の二男長興(ながおき)に5万石が分与されて秋月(あきづき)藩が、三男高政に4万石が分与されて東蓮寺(とうれんじ)藩(のち直方(のおがた)藩と改む)が成立した。直方藩は1677年(延宝5)にいったん廃されたが、1688年(元禄1)に再興され、1720年(享保5)廃藩となった。
近世の筑前は全国でも有数の穀倉地帯であり、筑前米は大坂米市場の建米(たてまい)となることが多かった。商品作物としては菜種(なたね)や櫨(はぜ)が栽培され、櫨蝋(はぜろう)の生産が盛んに行われた。また遠賀(おんが)川流域では18世期後半から石炭の採掘が行われていた。元禄(げんろく)時代(1688~1704)に出た貝原益軒(えきけん)は朱子学者として著名であり、宮崎安貞(やすさだ)は日本で初めての本格的な農書である『農業全書』(1697)を著した。
1868年(明治1)幕府の倒壊によって怡土郡西半分のうち幕府領は日田県管地となり、71年7月の廃藩置県によって福岡藩、秋月藩はそれぞれ福岡県、秋月県に、怡土郡西半分のうち対馬(つしま)藩領、中津藩領はそれぞれ厳原(いづはら)県、中津県の管理となった。同年9月日田県管地は伊万里(いまり)県管地に改められ、同年11月筑前1国は福岡県に統合された。
[柴多一雄]
『『福岡県史』全四巻(1962~65・福岡県)』▽『竹内理三編『福岡県の歴史』(1956・文画堂)』▽『平野邦雄・飯田久雄著『福岡県の歴史』(1974・山川出版社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
西海道の国。7世紀末に筑紫国が前後にわかれて成立。現在の福岡県主要部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では怡土(いと)・志摩・早良(さわら)・那珂・席田(むしろだ)・糟屋(かすや)・宗像(むなかた)・遠賀(おか)・鞍手(くらて)・嘉麻(かま)・穂浪・夜須(やす)・下座(しもつあさくら)・上座(かみつあさくら)・御笠(みかさ)の15郡からなる。国府と国分寺・国分尼寺は御笠郡(現,太宰府市)におかれた。一宮は住吉神社(現,福岡市博多区)。「和名抄」所載田数は1万8500余町。「延喜式」では調庸は布帛や海産物のほか席・甕・塩など,中男作物は薦や海産物。大陸からの文物輸入の門戸にあたるため,弥生時代の板付遺跡,古墳時代の沖ノ島祭祀遺跡,那津官家(なのつのみやけ)跡とされる比恵(ひえ)遺跡や,大宰府史跡,鴻臚館(こうろかん)跡,膨大な輸入陶磁器を出土した博多遺跡群など重要遺跡が多い。「魏志倭人伝」の奴国(なこく)・伊都国などの故地でもある。奈良時代には大宰府府官が国務兼帯することもあったが,平安時代には分離した。鎌倉時代以降は少弐(しょうに)(武藤)氏が守護になることが多かったが,一時今川了俊,戦国期には大内氏が守護になり,大友,ついで小早川氏の支配期をへて福岡藩になる。1871年(明治4)廃藩置県により福岡県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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