日本歴史地名大系 「郡田村」の解説 郡田村こおりだむら 鹿児島県:国分市郡田村[現在地名]国分市郡田弟子丸(でしまる)村の北東、手籠(てご)川支流郡田川の流域に位置し、北は重久(しげひさ)村。山之路(やまのじ)村を挟んで本村の西方、郡田川支流永谷(ながたに)川や検校(けんこう)川の最上流域にあたる台地上に飛地の上郡田がある。中世には郡田名で推移し、近世には清水(きよみず)郷に属した。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)では曾於(そお)郡のうちに「郡田名十三丁」とある。建武四年(一三三七)肝付兼重・野辺盛忠・谷山隆信・矢上高澄・伊集院忠国・知覧院忠世らに率いられた南朝勢は数千騎で大隅国に侵入し、郡田・清水寺・鼻面(はなづら)山に向城を取り、同年一一月二九日には北朝方の橘木(たちばなき)城を攻め、翌五年三月一四日から二〇日にかけても日当山(ひなたやま)城(現隼人町)や橘木城などで北朝方と合戦している(同五年三月二三日「重久篤兼軍忠状」旧記雑録など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by