野間内海庄
のまうつみのしよう
安楽寿院領、のち長講堂領。野間庄・内海庄と各々分けて称される場合もある。野間の初見は平城宮出土木簡のうち天平元年(七二九)と考えられる一〇月一九日の「□具郷野間里和尓部臣牟良御調塩」。富具崎を挟んで南北に連なる美浜町野間および南知多町内海辺りに比定される。康治二年(一一四三)八月一九日付太政官牒写(安楽寿院文書)に
<資料は省略されています>
とあり、北西で藤原氏領枳豆志庄と境を接し、北東を山で区切り、南西で海に面していた。鎌倉前期と推定される「庄々所済日記」(安楽寿院文書)によれば、田畑一五七町五反三畝(三〇〇歩か)をもつ。荘名の初見は前掲の太政官牒で、これによれば当庄は、この康治二年安楽寿院領として官使等の不入および大小国役の停止が認められた荘園一四ヵ所、末寺末社各二ヵ所のうちの一つである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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