日本歴史地名大系 「金山坊跡」の解説 金山坊跡きんざんぼうあと 大分県:玖珠郡九重町田野村金山坊跡[現在地名]九重町田野 蕨原星生(ほつしよう)山を水源とする奥郷(おくごう)川の右岸、蕨原(わらびはら)にあった修験道場。九重山幸水寺金山坊といい、英彦山修験に属する。山伏の子孫宅横に御堂が残る。金山家文書中の山中文書によれば、山伏金山坊の元祖は、豊前小倉領より硫黄(いおう)山の坊原に移住、二代明合院のとき蕨原に下ったという。享保六年(一七二一)の田野村明細帳(渡辺家文書)には山伏一軒、人数六人のうち二人山伏、一人男、三人女とあり、九重山金山坊と称し、硫黄山の祈念山伏で、少々の高持で百姓並に勤めたとある。宗旨は天台宗彦山霊仙(ひこさんりようせん)寺惣持(そうじ)院末流。硫黄山は高さ一千二〇〇間、総周り三千二〇〇間。これらによれば金山坊のおもな役割は強弱常ならぬ硫黄山の火山活動に対する祈念で、硫黄山の硫黄採集のあがりの三割を守山伏の特権として徴収できたという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by