日本歴史地名大系 「田野村」の解説
田野村
たのむら
宮崎郡に所属する飫肥藩領
〔中世〕
暦応二年(一三三九)五月九日の足利直義感状(小串文書)によると、「日向国々富庄内田野城合戦」での小串弥四郎の戦功が賞されている。おそらく南朝方の肝付兼重方との合戦でのことと考えられる。地内の仮屋原には自然地勢を利用した岩城の仮屋原(借屋原)城跡があり、これが田野城とみられる。同年九月二日の日下部盛連軍忠状(郡司文書)には、肝付兼重が
田野は宮崎と都城方面とを結ぶ要路にあたり、大永四年(一五二四)都城の北郷左衛門尉の娘が伊東祐充に嫁いだ際、その一行が都城、
田野村
たのむら
周桑平野の西南部に位置し、東は
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
「和名抄」に「周敷郡 田野 池田 井出 吉田」と
とあり、足利義満が田野郷地頭職を門真周清に安堵したことが記されている。
戦国時代末期以後、長宗我部元親の支配や、小早川隆景ら大領主時代を経て、寛永一二年(一六三五)に松平定行が松山に封ぜられ、幕末に至るまで松山藩領であった。
田野村
たのむら
長宗我部地検帳の表題は「安喜郡田野庄」とあり、古く田野庄という荘園があったとも考えられるが不詳。同帳に名主職を含む下司名二〇筆をはじめ公文名などが記され、「南路志」所引の村内寺院の寺記には「田野村ハ公家御所領ニ而」などとある。また鎌倉時代初頭に京都の徳大寺一門の公家が流罪となり田野に来て北方の
長宗我部氏時代の田野村は、奈半利城(現奈半利町)にいた桑名丹後守の支配下にあり、天正一七年(一五八九)の田野庄地検帳の総地高六七町八反余のうち四九パーセントが給地とされた。これは奈半利の八〇パーセントに比べ少ないが、田野が熟田の比率が低いことと関係があるらしい。残り五一パーセントは長宗我部氏の直領と散田である。
田野村
たのむら
慶長一九年(一六一四)の田野村弥吉宛の小川長右衛門等連署書状写、元和四年(一六一八)の泉豊等連署書状写(ともに真修寺文書)に村名がみえ、田野村の硫黄運上銀丁銀五枚と津出し以外の諸役免除を伝えている。また高冷地のため村勢がよくないことを記している。慶長二〇年毛利高政の庄屋百姓中への書状(同文書)では同年より三年間諸役を免除し、村の疲弊のため他村に走った百姓を連れもどし、荒地を起こし生活できるようにせよといっており、そのため先の免除のほか、横物成の茶・柿銀も取らないとしている。
田野村
たのむら
- 福井県:大野市
- 田野村
ところで、同七年一〇月二四日付の自筆蓮如絵像裏書(最勝寺文書)には「越前国大野郡飛田庄田野最勝寺常住也」とあり、天正一一年(一五八三)一二月六日付青木紀伊守安堵状(同文書)には「於近所、田地壱町分遣之」とあるから、早くから
田野村
たのむら
- 京都府:福知山市
- 田野村
由良川の支流
村の東は
田野村はもと
田野村
たのむら
- 徳島県:小松島市
- 田野村
田野村
たのむら
- 京都府:綾部市
- 田野村
寛文修正検地では高三二二石余、天保年間(一八三〇―四四)の家数は四五(田畑反別石高其他)。「巡察記」は当村の農作について、
と述べる。田畑反別石高其他によれば、村方から上納すべきものとして寺村とともに茅が指定されている。
田野村
たのむら
田野村
たのむら
- 栃木県:宇都宮市
- 田野村
東は
田野村
たのむら
田野村
たどのむら
田野村
たのむら
田野村
たのむら
田野村
たのむら
田野村
たのむら
- 茨城県:水戸市
- 田野村
田野村
たのむら
田野村
たのむら
田野村
たのむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報