田野村
たのむら
[現在地名]田野町 今村・船ヶ山・二ッ山・中尾・石久保・前平天神・梅谷・下井倉・上井倉・北寺町・南寺町・中渡瀬・仏当園・新村・尾脇・倉谷・上倉谷・築地原・楠原・黒草・元野・片井野・麓・七野・塩水・松山・上ノ原・合又・上学ノ木・下学ノ木・稲荷町・仲町・本町・中原・明神原・上桜町・中桜町・下桜町・木材町・東桜町・北桜町・向町・上屋敷・下屋敷・仮屋原・三角寺・法光坊・上鷺瀬・下鷺瀬・桂谷・演習林・楪・天神・丸野・八重・野崎・白砂ヶ尾・堀口・灰ヶ野・鹿村野・唐仁田
宮崎郡に所属する飫肥藩領清武郷内の村。東は幕府領の船引村(現清武町)と飫肥藩領今泉村(現同上)、南は同藩領の那珂郡北河内村(現北郷町)、西は鹿児島藩領の諸県郡山之口村(現山之口町)、北西は同藩領の同郡内山村、北は同藩領の同郡上倉永村(ともに現高岡町)。南には鰐塚山(一一一八・八メートル)がそびえ、周りを六〇〇メートル級の山々に囲まれた標高二〇〇メートル以下の盆地を形成している。西側より松山川・片井野川・別府田野川・井倉川などの河川が北流して合流し、清武川となって北東流する。村のほぼ中心を薩摩街道が東西に走る。現田野町域を村域とし、町域内の通称地名が中世・近世の史料に数多く登場する。
〔中世〕
暦応二年(一三三九)五月九日の足利直義感状(小串文書)によると、「日向国々富庄内田野城合戦」での小串弥四郎の戦功が賞されている。おそらく南朝方の肝付兼重方との合戦でのことと考えられる。地内の仮屋原には自然地勢を利用した岩城の仮屋原(借屋原)城跡があり、これが田野城とみられる。同年九月二日の日下部盛連軍忠状(郡司文書)には、肝付兼重が国富庄田野別符の浜城に立籠り、北朝方の畠山直顕と合戦となったと記される。この記載のみからは判断できないが、現在の田野町域を中心に成立した田野別符は、国富庄の庄官らの開発により成立した可能性がある。
田野は宮崎と都城方面とを結ぶ要路にあたり、大永四年(一五二四)都城の北郷左衛門尉の娘が伊東祐充に嫁いだ際、その一行が都城、高城(現高城町)を経由し田野の仮屋(領主居館)に宿しているのはその一例である(日向記)。室町期には島津・伊東両氏の係争地にあたっていたが、文安五年(一四四八)木原・加納(現清武町)などとともに伊東祐尭の確保する地域となり(同書)、南九州の領主配置を示す文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には伊東氏知行の山東の城の一つに田野がみえ、文明一六年(一四八四)の伊東祐国らの飫肥出陣にあたっては、田野は伊東祐邑の軍勢に付けられ、翌一七年の飫肥での合戦で祐国とともに田野衆の松山又太郎が戦死している(日向記)。
田野村
たのむら
[現在地名]丹原町北田野・田野上方
周桑平野の西南部に位置し、東は願連寺村・今井村、吉田村・周敷村(現東予市)、大頭村・妙口村(現小松町)に、南は大頭村・赤尾村・安井村(現小松町)・長野村に、西は長野村・高松村に、北は高松村・今井村・吉田村・池田村などの多くの村に接する大村である。村の西部の山沿いに高松川が、南境を中山川がそれぞれ東北方に流れ、両川の間に広い田野が広がる。田野の古名もそれに由来すると思われるが、また田能とも表記される。旧松山道が村の東北から西南へ通る。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に高一千九三四石三斗八升九合、うち田方一千五九八石八斗六升六合、畠方三三五石五斗二升三合とあり、「田野村」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記も同石高で「松平隠岐守知行 田野村」とある。寛文四年(一六六四)の「寛文印知集」、天保郷帳でも村名表記は同じである。
「和名抄」に「周敷郡 田野 池田 井出 吉田」と周敷郡七郷の一つとして記されているのが地名の初見であり、この一帯は早くから開けたと思われる。壱町地・大坪(北田野)等の古地名が小字として残る。また元慶二年(八七八)に当地の墓辺神(綾延神社)に従五位下の神階が授けられている。康暦元年(一三七九)の足利義満の下文(鹿王院文書)に
<資料は省略されています>
とあり、足利義満が田野郷地頭職を門真周清に安堵したことが記されている。
戦国時代末期以後、長宗我部元親の支配や、小早川隆景ら大領主時代を経て、寛永一二年(一六三五)に松平定行が松山に封ぜられ、幕末に至るまで松山藩領であった。
田野村
たのむら
[現在地名]田野町
奈半利川河口西側に位置する村で、西南は土佐湾に面する。海岸沿いを土佐街道(東街道)が通り、集落は街道沿いにある田野浦に集まる。江戸時代には村は郷と浦に分れていた。中世以降に開発された地で、近世に魚梁瀬山(現馬路村)など奈半利川上流の林産物の積出しに関係して急激に発展した。集落はまず平野部の北と西の台地の裾や斜面につくられたらしく、土生岡から弥生時代後期の石斧が二個出土しているが、ほかには考古遺跡はない。田野の地名は南北朝初期にまとめられたとされる妙楽寺文書(蠧簡集木屑)に「田野浜赤木奇タリ夜光ヲ成ス、是ヲ取テ御ソキトシテ御タケ一尺二寸ニ奉造立薬師如来」とみえるのが早い。
長宗我部地検帳の表題は「安喜郡田野庄」とあり、古く田野庄という荘園があったとも考えられるが不詳。同帳に名主職を含む下司名二〇筆をはじめ公文名などが記され、「南路志」所引の村内寺院の寺記には「田野村ハ公家御所領ニ而」などとある。また鎌倉時代初頭に京都の徳大寺一門の公家が流罪となり田野に来て北方の高田山に居住し、高田法橋と名乗ったという伝承がある。戦国時代初期にも京都の公家が来住し西方大野台地の南部に城を構えて大野豊前守と称し、麓に八幡宮を勧請したとも伝える。
長宗我部氏時代の田野村は、奈半利城(現奈半利町)にいた桑名丹後守の支配下にあり、天正一七年(一五八九)の田野庄地検帳の総地高六七町八反余のうち四九パーセントが給地とされた。これは奈半利の八〇パーセントに比べ少ないが、田野が熟田の比率が低いことと関係があるらしい。残り五一パーセントは長宗我部氏の直領と散田である。
田野村
たのむら
[現在地名]九重町田野
後野上村の南方にあり、西部に九酔渓、震動の滝、南に泉水山などがある。当地と接する直入郷は南北朝期以後地頭職を大友惣領家が帯するが、貞治三年(一三六四)二月の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)に直入郷付田野とあり、直入郷の付属地とされており、当時なお開拓が進まぬ郡界の入会地としての野であったと考えられる。天正一五年(一五八七)一〇月六日の斎藤道
知行坪付(野上文書)にみえる「かちや名」を地内の鍛冶屋園に比定する説があり、同所野上肥前跡一町二段などが野上山城守の知行となっている。同年とみられる一〇月一九日の真福寺養白打渡状(同文書)でも同様の知行となっており、鍛冶屋名と記される。豊後清原氏の分流森弥右衛門は島津軍侵入の際森(現玖珠町)の角牟礼城を落ちて田野で戦死、子の次郎右衛門は捕らえられたがのち帰国し、田野楮原に定住したという。森氏の墓は同所にある。
慶長一九年(一六一四)の田野村弥吉宛の小川長右衛門等連署書状写、元和四年(一六一八)の泉豊等連署書状写(ともに真修寺文書)に村名がみえ、田野村の硫黄運上銀丁銀五枚と津出し以外の諸役免除を伝えている。また高冷地のため村勢がよくないことを記している。慶長二〇年毛利高政の庄屋百姓中への書状(同文書)では同年より三年間諸役を免除し、村の疲弊のため他村に走った百姓を連れもどし、荒地を起こし生活できるようにせよといっており、そのため先の免除のほか、横物成の茶・柿銀も取らないとしている。
田野村
たのむら
[現在地名]大野市田野
真名川の右岸、塚原野の西北端に位置し、北は上麻生島村、南は井口村。「実隆公記」延徳三年(一四九一)四月九日条に「越前国田野村事、可然様可入魂之由同命彼法師了」とみえる。同書には享禄二年(一五二九)正月七日条まで、「越前田野村公用千疋」「越前田野村用脚」「越前田野村年貢千疋」などと頻出し、当時三条西家領であったと推定される。ただし明応元年(一四九二)一二月四日の条に「越前田野村公用千疋、慈親院執沙汰、宗祇法師送之、当年不慮之子細也、可謂天之所与者也」とあり、「慈親院」は朝倉孝景の弟光玖であるから、当時同家領には朝倉氏の影響が及んでいたと思われる。
ところで、同七年一〇月二四日付の自筆蓮如絵像裏書(最勝寺文書)には「越前国大野郡飛田庄田野最勝寺常住也」とあり、天正一一年(一五八三)一二月六日付青木紀伊守安堵状(同文書)には「於近所、田地壱町分遣之」とあるから、早くから最勝寺領があったと思われる。
田野村
たのむら
[現在地名]福知山市字田野
由良川の支流土師川へ南方から竹田川が合流する付近の南にある。村内中央を土師川が横断し、村の南方から田野川が北流して竹田川に入る。集落は田野川の河口近くの口田野、中・上流部の田野山田、竹田川の対岸の笹場である。
村の東は大内村、北は岩間村、南は山を境にして、氷上郡(現兵庫県)、西も同郡に境する。
田野村はもと六人部七箇の大内村に含まれており、「丹波志」大内村の項に「宮村・田野村大内ヨリ分村ナリ」とある。
田野村
たのむら
[現在地名]小松島市田野町・赤石町
芝生村の南に位置する広域の村で、地内を土佐街道が通る。中世は太奈保などとみえる。近世は勝浦郡のうち。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「田野」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「たの村」と記される。正保国絵図では「田野村」として高九三五石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方八五一石余・畠方八三石余、芝山・小生山の注記がある。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では高七七石余。この頃までの新開地は寛永元年に新田高二五三石余、同九年に同高二八二石余、同一五年に改出高一五三石余、正保元年(一六四四)に新田高一三〇石余、寛文一〇年に同高一五石余、貞享元年(一六八四)に同高一一三石余であったという(天保五年「阿波国淡路国内郷村高帳」蜂須賀家文書)。
田野村
たのむら
[現在地名]綾部市田野町
四ッ尾山の南の谷間にある。綾部郷一二ヵ村の一。東は寺村、西は安場村。田畑反別石高其他(沼田家文書)には「北田野川飛越限リ、平尾境ハ吉見 土橋切、南長宮峠峯限リ」とある。南の長宮峠を越えれば天田郡河合村(現三和町)に達する。
寛文修正検地では高三二二石余、天保年間(一八三〇―四四)の家数は四五(田畑反別石高其他)。「巡察記」は当村の農作について、
<資料は省略されています>
と述べる。田畑反別石高其他によれば、村方から上納すべきものとして寺村とともに茅が指定されている。
田野村
たのむら
[現在地名]山方町北富田
久慈川の東方に位置し、四方を山で囲まれる。人家は山の中腹に散在し、東南は諸沢村、北は富根村(現久慈郡大子町)。
文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「高五百廿一石五斗七升 此内五十九石六斗弐升 荒 定納六十七貫文 皆納 長山大助田のもろ沢」と記され、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「六拾石八斗一升 田野村」とみえ、元禄郷帳にも「田野村」とある。
田野村
たのむら
[現在地名]宇都宮市田野町
東は荒針村、南は飯田村および都賀郡栃窪村(現鹿沼市)。多気山南部に位置し、北西は山がめぐり、南東は平坦で耕地が開ける。家中系図(奥平家文書)によれば、奥平氏重臣逸見主膳正久は慶長七年(一六〇二)田野村などで一千石を領したという。近世初期は宇都宮藩領。慶安郷帳に田方一八八石余・畑方一七二石余とある。天明八年(一七八八)の日光新御領村々衆談一件(輪王寺文書)に村名があり、元禄一三年(一七〇〇)宇都宮藩領から日光領となったとある。改革組合村では幕府領。享保九年(一七二四)には壬生通板橋・文挟両宿(現今市市)へ助郷に出ており、助郷高は四一四石(「板橋・文挟宿助郷帳」小堀三郎文書)。
田野村
たのむら
[現在地名]大和村田野
初鹿野村の東、日川渓谷左岸に位置する。「塩山向嶽禅菴小年代記」は天正一〇年(一五八二)三月の武田家の滅亡に言及して、「同十一日大守勝頼父子御門共ニ、初鹿野於于田野御切腹」と記す。戦国時代当地は初鹿野の名を冠してよばれる地域に含まれていた。織田・徳川連合軍に追われた武田勝頼は都留郡の小山田信茂を頼ったが、信茂の裏切りの前に果せず、「こがつこ」(駒飼か)から日川をさかのぼり、「田子」(田野か)に暫時の柵を設けて居陣した(信長公記)。
田
野村
たどのむら
[現在地名]甲賀町田堵野
滝村の東、平地に位置。村域は杣川と櫟野川との間に広がり、両川は村の西端で合流。集落は上・下に分れる。元暦元年(一一八四)七月の伊賀・伊勢平氏の近江侵攻において、平氏側は当地などに陣取った(「源平盛衰記」巻四一)。寛永石高帳では高五七八石余、正保郷帳では幕府領および旗本渡辺領。幕府領は元禄一一年(一六九八)旗本西郷領となる。渡辺領は元禄郷帳では鉄砲百人組頭近藤氏与力領、天明村高帳では大津代官石原氏預領。
田野村
たのむら
[現在地名]肥前町大字田野
東松浦半島上場台地が伊万里湾に沈降する位置にあり、村全体が南側にやや傾斜する台地である。新木場村を発する滝ノ山川は、ほかの小支流を合わせて当村内で車川(田野新田川)となり高串湾に注ぐ。海岸沿いに高串新田がある。また松島・小松島・裸島・小島があり、平瀬・笠瀬・長瀬の暗礁がある。字阿漕周辺に炭田があり、天保元年(一八三〇)に始まった石炭採掘は明治初年に最高をきわめたが、現在は掘り尽されてしまった。
田野村
たのむら
[現在地名]宗像市田野
宗像郡と遠賀郡とを分ける四塚連山の北端にある湯川山(四七一・四メートル)の南西斜面から西側に低くなり、玄界灘に面する位置にある。南西は吉田村、東は遠賀郡内浦村(現岡垣町)。玄界灘に面して白砂青松のさつき松原が長く延びている(続風土記)。この松原は慶長七年(一六〇二)黒田長政が防風防砂のため植林したのに始まる(玄海町史)。小早川時代の指出前之帳では枝村江口村を含んだ田野村の田五〇町二反余(分米八〇四石余)・畠三町八反余(分大豆九四石余)。
田野村
たのむら
[現在地名]葛巻町田部
馬淵川と支流星野川流域に位置し、二戸郡に属する。南は九戸郡葛巻村、北は二戸郡冬部村。正保国絵図に村名がみえ、高六六石余、冬部村まで一里とある。「雑書」慶安三年(一六五〇)四月一三日条によれば、「中山一里番置候村」のうちに「塩治久左衛門知行所丹野村」がみえる。万治四年(一六六一)二月二九日条では、「一戸之内冬部さみたけ御金山」の権利を、運上金三匁で田野村三十郎などに与えている。
田野村
たのむら
[現在地名]水戸市田野町
上市台地の西北方に位置し、緩やかな起伏のある丘陵地帯にあり、村の北部を田野川が東流する。南は開江村。古士巻遺跡・仲根縄文遺跡・仲根弥生遺跡・仲根土師遺跡・三つ児塚古墳群・後山田遺跡・山田古墳群・田野台遺跡など多くの遺跡があり、古くから生活が営まれたことがわかる。正保三年(一六四六)の村替で宍戸藩領から水戸藩領となり、元禄郷帳に「田野村」とみえる。「水府志料」によると村は東西二八町余・南北二一町、戸数はおよそ八四とあり、また「秣野 南原、中みねに十五町歩余あり」とみえる。
田野村
たのむら
[現在地名]江津市金田町・島の星町
那賀郡の江川左岸下流部にあり、対岸は八神村、東は南川上村、西は千金村。北西は島の星山頂で久保川村・千田村と接する。江戸初期に南川上村より分村し、正保四年(一六四七)の古田領郷帳では「南川上村ヘ入ル」として高七八石余、免六ツ三分五朱。宝永石見国郷村帳には南川上村枝郷とある。
田野村
たのむら
[現在地名]香寺町田野
犬飼村の北西に位置し、市川右岸の河岸段丘上と段丘下に立地する。村の南西方には中世の田野城跡がある。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方四三六石余・畑方一四一石余、「芝山有」と注記される。寛延二年(一七四九)の免状(清瀬家文書)によると本田高七五七石余で、取米合せて二七九石余。天保郷帳では高七六三石余。寛延二年の姫路藩領一揆では当村庄屋弥兵衛家が打毀に遭っている(「田野村庄屋言上書」清瀬家文書)。
田野村
たのむら
[現在地名]宇目町重岡 田野・水ヶ谷
宮野村の南、市園川流域に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高四三石余・畑高一四石余、宇目郷に属する。旧高旧領取調帳では高九六石余。寛政三年(一七九一)には重岡組に属し、村位は中、免六ツ七分(「組々免村継郡付庄屋村横目名面帳」三重町立図書館蔵)。日向から梓峠越で至る水ヶ谷は「豊後国志」に宇目郷中の村名とみえるが、明治初年には当村に統合された(大分県町村沿革誌)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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