鈴木文史朗(読み)スズキ ブンシロウ

20世紀日本人名事典 「鈴木文史朗」の解説

鈴木 文史朗
スズキ ブンシロウ

大正・昭和期のジャーナリスト,評論家 朝日新聞社常務;「リーダーズ・ダイジェスト」日本版初代編集長;参院議員(緑風会)。



生年
明治23(1890)年3月19日

没年
昭和26(1951)年2月23日

出生地
千葉県海上郡豊浦町(現・銚子市)

本名
鈴木 文四郎(スズキ ブンシロウ)

学歴〔年〕
東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語学科〔大正2年〕卒

経歴
三菱合資会社地所部を経て、大正6年東京朝日新聞社入社、シベリア出兵時の従軍記者パリ講和会議ロンドン、ワシントン軍縮会議などに特派員として活躍。14年社会部長となり、その後編集総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、昭和17年常務取締役に就任終戦で辞任した。戦後幣原喜重郎内閣の戦時調査会、内務省国土計画要員会などに勤め、21年「リーダーズ・ダイジェスト」の日本版初代編集長となる。24年同社日本支社長、25年辞任。全国出版協会理事長、NHK理事なども務め、25年参院議員(緑風会)に当選。日本青年館理事長として青年運動にも尽力著書に「米欧変転記」「文史朗随筆」「心を打つもの」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「鈴木文史朗」の解説

鈴木 文史朗
スズキ ブンシロウ


肩書
参院議員(緑風会),朝日新聞社常務,「リーダーズ・ダイジェスト」日本版初代編集長

本名
鈴木 文四郎(スズキ ブンシロウ)

生年月日
明治23年3月19日

出生地
千葉県海上郡豊浦町(現・銚子市)

学歴
東京外国語学校(現・東京外国語大学)英語学科〔大正2年〕卒

経歴
三菱合資会社地所部を経て、大正6年東京朝日新聞社入社、シベリア出兵時の従軍記者。パリ講和会議、ロンドン、ワシントン軍縮会議などに特派員として活躍。14年社会部長となり、その後編集総務、論説委員、整理部長、名古屋支社長、取締役を歴任し、昭和17年常務取締役に就任、終戦で辞任した。戦後は幣原喜重郎内閣の戦時調査会、内務省国土計画要員会などに勤め、21年「リーダーズ・ダイジェスト」の日本版初代編集長となる。24年同社日本支社長、25年辞任。全国出版協会理事長、NHK理事なども務め、25年参院議員(緑風会)に当選。日本青年館理事長として青年運動にも尽力。著書に「米欧変転記」「文史朗随筆」「心を打つもの」などがある。

没年月日
昭和26年2月23日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

367日誕生日大事典 「鈴木文史朗」の解説

鈴木 文史朗 (すずき ぶんしろう)

生年月日:1890年3月19日
大正時代;昭和時代のジャーナリスト;政治家。朝日新聞社常務;参院議員
1951年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の鈴木文史朗の言及

【漫画】より

…何人もが組んで一つの漫画作品を描くという仕事ぶり,シンジケートを通して各地の新聞に同じ作品を載せるという配給のしかた,新聞だけでなく映画,テレビ,キャラクター商品などをとおしてマルチ・メディアに同時進出するというありようは,すべて20世紀のアメリカで始まり,日本にも入ってきた。 第1次大戦後の平和会議を報道するために派遣された朝日新聞記者鈴木文史朗は,アメリカ経由でヨーロッパにむかい,その途上で漫画の重大性に気づいた。日本にもどった後,1923年1月創刊の《アサヒグラフ》の編集長になったとき,彼はアメリカの新聞連載漫画マクマナス作《親父教育》を翻訳連載するとともに,自分で腹案をたてて部下の織田信恒に文を,樺島勝一に絵を頼んで日本最初の連載漫画《正チャンの冒険》を始めて,成功をおさめた。…

※「鈴木文史朗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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