パリ講和会議(読み)ぱりこうわかいぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パリ講和会議」の意味・わかりやすい解説

パリ講和会議
ぱりこうわかいぎ

フランスのパリで開かれた講和会議は歴史上その数が多いが、そのなかでとくに有名なものは、(1)1919年の第一次世界大戦終結に関する会議、および(2)第二次大戦後1946年7月29日から10月15日にかけてのイタリアなど旧枢軸五か国と連合国との講和会議がある。

(1)1919年(大正8)1月18日、パリのフランス外務省に27か国代表を集めて開かれた。正しくは講和予備総会とよばれ、クレマンソー議長とした。総会は全部で6回開かれ、おもに手続上の問題を議した。重要な問題は、五大国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)より2名の代表が出て構成する最高会議によって決定された。なお、日本代表は西園寺公望(さいおんじきんもち)と牧野伸顕(のぶあき)であった。第2回の総会(1月25日)で国際連盟の創設が決議され、5月7日、対ドイツ講和条約草案がドイツ側に示され、微少な修正を加えただけで、6月28日ベルサイユ宮殿鏡の間で講和条約の調印式が行われた。この間会議はパリで行われたので、講和会議はパリ講和会議とよび、ドイツに対する講和条約は調印式場の名をとってベルサイユ講和条約という。

(2)この会議は、1946年7月31日講和条約草案を発表したが、関係諸国の政情不安があり講和条約の調印は遅れて、翌47年2月10日、ようやく調印が行われた。

[斉藤 孝]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリ講和会議」の意味・わかりやすい解説

パリ講和会議
パリこうわかいぎ
Paris Peace Conference

ベルサイユ講和会議,ベルサイユ会議ともいう。 1919年1~6月,パリで開かれた第1次世界大戦の戦後処理のための国際会議。敗戦国とロシアを除いて連合国がドイツとの平和条約を討議した。1月 18日最初の会議がパリのフランス外務省で開かれ,6月 28日ベルサイユ宮殿で対独平和条約であるベルサイユ条約が調印され閉幕。日本側首席全権は西園寺公望であった。日本は中国の山東にドイツが持っていた利権継承,赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治などを認められたが (→南洋諸島委任統治問題 ) ,日本に利害関係のある問題以外は意思表示をせず「沈黙のパートナー」と呼ばれ,日本外交のあり方,日本外交官の養成の方法に反省が迫られた。

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