幣原喜重郎内閣(読み)しではらきじゅうろうないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「幣原喜重郎内閣」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎内閣
しではらきじゅうろうないかく

(1945.10.9~1946.5.22 昭和20~21)
1945年10月4日のGHQ連合国最高司令部)の民主化指令に衝撃を受け東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣総辞職すると、内大臣木戸幸一は近衛文麿(このえふみまろ)らと協議し、外交に明るくGHQから了解を得られる人物として幣原喜重郎を首相に推薦、同月9日内閣が成立した。マッカーサーは挨拶(あいさつ)にきた幣原に、婦人参政権、労働組合の奨励、教育・司法・経済の民主化を命じた(五大改革指令)。以後、年末までに軍国主義的教員の追放、国家と神道(しんとう)の分離、財閥解体農地改革などの重要指令が次々とGHQから幣原内閣に出された。天皇の人間宣言、憲法問題調査委員会(松本烝治(まつもとじょうじ)国務相)による明治憲法の微温的修正を通して天皇制の温存に苦慮するが、後者はGHQの拒否にあい、GHQ草案を土台とした憲法改正草案要綱の公表となった。公職追放で四閣僚が辞職するなどの打撃を受けながらも、1946年4月10日の総選挙後も幣原内閣は居座りを図った。自由、社会、協同、共産4党は幣原内閣打倒四党共同委員会をつくり、それに対抗した。4月22日ついに総辞職、その後継をめぐって1か月の政治空白期を生じた。

[宮﨑 章]


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百科事典マイペディア 「幣原喜重郎内閣」の意味・わかりやすい解説

幣原喜重郎内閣【しではらきじゅうろうないかく】

1945年10月9日〜1946年5月22日。東久邇稔彦内閣のあとを受け,慣例を破り天皇の重臣への諮問を経ずに成立。この内閣はGHQの日本民主化に関する各指令を受け,特に憲法改正を実行することが課題であった。労働組合法,選挙法改正などを成立させ,1946年4月10日の総選挙以後,野党の共同戦線に敗れ総辞職した。→幣原喜重郎
→関連項目安倍能成日本日本協同党農地改革宮沢俊義

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「幣原喜重郎内閣」の解説

幣原喜重郎内閣
しではらきじゅうろうないかく

幣原喜重郎を首班とする内閣(1945.10.9~46.5.22)。東久邇(ひがしくに)内閣の総辞職をうけて成立。1945年(昭和20)10月11日のマッカーサーからの要求である,憲法の自由主義化と「五大改革」などの占領初期の民主化政策に対応することを主要課題とした。46年1月の天皇の人間宣言発表,公職追放指令への対応,同年2月の金融緊急措置令・食糧緊急措置令,3月の憲法改正草案要綱の発表などが大きな仕事であった。4月10日戦後最初の総選挙を実施。内閣の居座りをはかったが失敗し,4月22日総辞職。後継の吉田内閣発足まで1カ月の政治的空白期が続いた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「幣原喜重郎内閣」の解説

幣原喜重郎内閣
しではらきじゅうろうないかく

第二次世界大戦後,幣原喜重郎を首班とする内閣(1945〜46)
1945年10月,東久邇宮稔彦 (ひがしくにのみやなるひこ) 内閣のあとをうけて組閣。GHQの指示のもと,日本国憲法草案の作成,公職追放,労働組合法制定,選挙法改正などを実施した。'46年4月総辞職。

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世界大百科事典(旧版)内の幣原喜重郎内閣の言及

【対日占領政策】より

…これに対しGHQは,1945年9月19日〈自由な新聞のもつ責任とその意味を日本の新聞に教えるものである〉とするプレス・コード(言論統制)を発表し,さらに10月4日,〈自由制限の撤廃についての覚書〉を出し,天皇に対する批判の自由,政治犯の釈放,特高警察の廃止,山崎巌内相の罷免などを命じ,東久邇内閣はこの衝撃で総辞職した。かわって成立した幣原喜重郎内閣に対し,マッカーサーは首相への要求で,人権確保の五大改革,すなわち婦人解放,労働組合結成奨励,教育民主化,秘密法制の撤廃,経済の民主化を命じた(1945年10月)。そして婦人参政権の承認,選挙法改正,農地改革財閥解体,その他自由と民主主義のための諸改革が実行された。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」