戦地に行き,そこから戦況を報道する記者。1807年スウェーデンの新聞《スウェーディッシュ・インテリジェンサーSwedish Intelligencer》の記者が,ナポレオンに反対して第4次対仏大同盟に加わった国王グスタブ4世の軍に従軍したのが最初とされる。日本では1874年の台湾出兵にあたり《東京日日新聞》の岸田吟香が従軍したのが最初であるが,軍は〈戦闘は其の謀,密なるを貴ぶ〉として記者としての従軍を許さなかったので,岸田は軍御用の大倉組手代として従軍した。その戦記は読者に喜ばれ,錦絵にもなった。77年の西南戦争には《東京日日新聞》の福地源一郎,《郵便報知新聞》の犬養毅ら4人の記者が従軍したが,このときも記者としての従軍は認められず,福地は参軍本営記室つまり軍の記録係としての従軍であった。朝鮮における1882年の壬午軍乱,84年の甲申政変にも有力紙は特派員を送ったが,軍が正式に従軍記者を認めたのは94-95年の日清戦争からである。しかし政府は緊急勅令を発して厳しい事前検閲を実施したので,戦地からの記事は抹殺されることが多く,そのため読物的な記事が盛んとなった。従軍記者の仕事はつねに生命の危機にさらされた危険なものであるが,極限状況下の人間を取材対象とするだけに,記者の意欲をかきたてることが多い。しかし,あらゆる戦争において従軍記者は軍の統制下に置かれて,自由な取材活動・報道は許されず,とくに自国が参戦している場合,自国にとって不利な報道が禁じられるので,公正な報道は不可能となり,読者・視聴者の戦意高揚のための役割を果たすものとなりやすい。
なお,従軍カメラマンも写真によるとはいえやはり報道に従事するので,広義には従軍記者といえる。カメラは〈歴史を記録する目〉(M.B. ブラディ)である。軍隊にはじめて写真家が随行したのは第1次世界大戦のことである。もちろんそれまでにもクリミア戦争をイギリス人のR.フェントンが,また南北戦争をブラディが撮った写真はあったものの,兵士たちの肖像や死体のころがる戦場風景など静物画のようなものが多く,新聞にのったものは少なかった。しかし,第1次世界大戦後の1920年代ころからカメラの技術革新が進み,35ミリカメラが登場したことにより,被写体の可能性が大幅に広がった。一方,30年代アメリカで《ライフ》,フランスで《ビュ》などが創刊され,本格的なグラフ・ジャーナリズムが成立すると,戦争写真は新聞や雑誌などに大量に印刷され,人々に戦争の真実を伝える機能を果たすようになった。こうしたなかで新聞社,通信社のカメラマンはもちろんのこと,雑誌社と契約したフリーのカメラマンが積極的に戦争の写真を撮るようになったのである。なかでも,スペイン戦争におけるR.キャパ,朝鮮戦争におけるダンカンなどはすぐれた戦争写真として特筆に値し,日本ではベトナム戦争における岡村昭彦,沢田教一,カンボジアの内戦における一ノ瀬泰造の名があげられる。従軍カメラマンも従軍記者と同じく戦意高揚のために写真を撮ることも多く,たとえば日本の十五年戦争時,陸・海軍がナチス・ドイツのPK(宣伝中隊)にならって組織した報道班は国策写真を撮ることを使命とした。
執筆者:新井 直之
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戦争または事変の際、戦地に派遣され、戦場のようすを報道する記者。従軍記者が注目され始めたのはクリミア戦争(1853~56)のころからで、このとき、イギリスの『タイムズ』の記者W・H・ラッセルSir William Howard Russell(1821―1907)は、現地のイギリス軍の惨状を生々しく暴露、政府の責任を追及した。この報道がナイチンゲールの野戦病院改革運動の起因となった。
日本で最初の従軍記者といわれるのは、1874年(明治7)5月、台湾出兵に同行した『東京日日新聞』の岸田吟香(ぎんこう)だが、このころは「戦闘の計画は密なるがだいじ」というので、公然たる記者の従軍は認められず、軍御用の大倉組手代の資格で従軍している。77年の西南戦争のときは、『東京日日新聞』の社長福地桜痴(おうち)が九州の前線へ赴き、山県有朋(やまがたありとも)の参軍記室(軍事記録方)のかたわら戦報を報道し、評判になったので、『郵便報知新聞』は犬養毅(いぬかいつよし)を現地に派遣、この通信で犬養の文名があがった。
前線に特派された記者が正式に従軍記者として認められたのは、日清(にっしん)戦争のときからだが、記者の扱いはひどいもので、列国の記者は士官待遇を与えられたのに、わが国の記者は軍馬以下の扱いといわれていた。しかし、戦地の通信は読者に歓迎されたので、日清戦争の記者派遣社は66社だったが、日露戦争では116社に増加している。同時に犠牲者も増え、戦没記者は日清戦争の3人から、日中戦争・太平洋戦争では298人に達している。戦後、日本が当事者となる戦争はなくなったが、世界各地で起きている戦闘に記者が巻き込まれるケースが増えている。とくに1960年代後半、インドシナの戦乱で、日本人を含む各国の記者に犠牲者、行方不明者が続出した。そこで、70年12月9日、国連総会は本会議で「武力紛争下で危険な取材に携わる記者の保護」を決議したが、戦闘下の記者の危険は依然として解決しない問題である。
[春原昭彦]
『全日本新聞連盟・新聞時代社編・刊『日本戦争外史 従軍記者』(1965)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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