鎧嶽城跡(読み)よろいがだけじようあと

日本歴史地名大系 「鎧嶽城跡」の解説

鎧嶽城跡
よろいがだけじようあと

[現在地名]大野町藤北

大野町北西端、鎧ヶ岳(八五九メートル)上にある中世の城跡。戸次氏の居城で、戸次鑑連(道雪)は永正一〇年(一五一三)「藤北鎧嶽城中藪河原之館」で誕生したとされる(「立花家譜」など)。元亀二年(一五七一)鑑連は大友宗麟から筑前立花たちばな城への転封を命じられ、同年八月一族ことごとく同城へ移った(同書)。当城には猶子となった甥の鎮連が入った。鎮連は豊薩合戦の際島津方に内応、その子統常は大友方に忠誠を誓って戸次へつぎ(現大分市)で戦死したという(「豊後国志」など)。「大友家文書録」では、天正一四年(一五八六)一〇月から翌年二月にかけて志賀親次が薩摩方から奪回した城の一として鎧嶽をあげている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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