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大友宗麟 おおとも そうりん

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

大友宗麟

豊後国を足がかりに、一時は北部九州6カ国を勢力下に置いた戦国大名。1551年にフランシスコ・ザビエルと面会し、宣教師らを保護。のちに自身も洗礼を受けた。豊後府内(大分市)にはコレジヨ(神学校)や病院が建てられ、西洋音楽もあふれたとされる。全国に先駆けてポルトガル、中国、朝鮮半島、東南アジアと交易し、豊後は「Bungo」として西洋の地図にもすり込まれた。大分市は、宗麟の事跡をてこに「南蛮文化発祥都市」を宣言し、観光振興をはかっている。宗麟を主人公にしたNHK大河ドラマの実現を目指す動きもある。

(2016-01-19 朝日新聞 朝刊 大分全県・1地方)

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デジタル大辞泉の解説

おおとも‐そうりん〔おほとも‐〕【大友宗麟】

[1530~1587]戦国時代の武将。豊後(ぶんご)臼杵城主。名は義鎮(よししげ)。キリスト教に入信し、洗礼名フランシスコ。北九州6か国を支配。ローマ教皇に少年使節を派遣。天正6年(1578)島津氏と戦って大敗し、以後衰退した。→天正遣欧使節

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百科事典マイペディアの解説

大友宗麟【おおともそうりん】

戦国時代のキリシタン大名。名は義鎮(よししげ)。教名フランシスコ。1550年家督を継ぎ,のち北九州6ヵ国の守護となり,大友氏の最盛期を築く。キリスト教に帰依しキリシタンを保護し,ポルトガル貿易を行い,府内(大分市)を西洋文化の中心地とした。
→関連項目伊東マンショ大友氏大村純忠カブラルザビエル

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大友宗麟 おおとも-そうりん

1530-1587 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)3年生まれ。大友義鑑(よしあき)の長男。豊後(ぶんご),肥後など九州6ヵ国の守護と九州探題をかねる。キリスト教を保護し,南蛮貿易をおこなう。天正(てんしょう)6年受洗,10年少年使節をローマにおくる。薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津氏の圧迫をうけ,豊臣秀吉の救援をもとめた。天正15年5月23日死去。58歳。名は義鎮(よししげ)。別号に宗滴,三非斎など。洗礼名はフランシスコ。

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世界大百科事典 第2版の解説

おおともそうりん【大友宗麟】

1530‐87(享禄3‐天正15)
戦国期に豊後を本拠とした大名。義鑑(よしあき)の子。実名は義鎮(よししげ),入道して三非斎,府蘭,円斎,宗滴と号す。キリシタン大名と呼ばれるが受洗は隠居後。受洗名フランシスコ。1582年(天正10)大村氏,有馬氏とともに天正少年使節団を派遣したといわれるが,使節持参の宗麟書状は偽文書で,少なくとも宗麟に関するかぎり使節は偽使。キリシタンに好意を示した動機は明らかに貿易が目的で,豊後府内沖ノ浜などを南蛮船の貿易港とし,フィリピン等へ貿易船を派遣するなど十分な成果をあげた。

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大辞林 第三版の解説

おおともそうりん【大友宗麟】

1530~1587) 戦国大名。義鑑よしあきの子。名は義鎮よししげ、剃髪ていはつして宗麟。豊後ぶんごの領主。キリスト教を保護し、自らも受洗。天正遣欧使節を派遣した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大友宗麟
おおともそうりん

[生]享禄3(1530).5.4? 府内
[没]天正15(1587).5.23. 津久見
戦国大名。義鑑の子。幼名は塩法師丸。天文9 (1540) 年2月3日元服。足利義晴の1字をもらって義鎮 (よししげ) と名のった。同 19年父の跡を継ぎ,豊後,筑後,肥後,肥前,豊前の6ヵ国を領し,同 21年には弟晴英 (のち義長) が大内氏の家督を継いで,大友氏全盛期を迎えた。永禄5 (62) 年,出家して休庵宗麟と号した。朝鮮貿易を行う一方,キリスト教に帰依してポルトガルとの交易をも積極的にした。洗礼名をフランシスコと称し,天正 10 (82) 年には大村,有馬氏とともに少年使節をローマへ派遣した (→天正遣欧使節 ) 。しかし,これ以前の同6年島津氏に大敗してから次第に衰えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大友宗麟
おおともそうりん
(1530―1587)

戦国大名。大友氏20代義鑑(よしあき)の長子として豊後府内(ぶんごふない)(大分市)に生まれる。幼名塩法師丸(しおほうしまる)。元服して義鎮(よししげ)。1550年(天文19)家督を継ぐ。62年(永禄5)怡雲(いうん)(宗悦(そうえつ))和尚(おしょう)について剃髪(ていはつ)し瑞峯(ずいほう)宗麟となり、以後三非斎(さんぴさい)、圓斎(えんさい)、府蘭(ふらん)、宗滴(そうてき)と称す。この間、来日中のフランシスコ・ザビエルと接してキリスト教布教を保護し、自らも78年(天正6)受洗してドン・フランシスコの洗礼名を受けた。領内にはポルトガル船の来航もあり、朝鮮貿易も行った。82年には大村氏、有馬氏とともに天正遣欧使節をローマ法王のもとに送った(宗麟の発意であったかについては疑いがもたれている)。一方、九州6か国(豊後(ぶんご)、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご))の守護職を手中に収めて大友氏の最盛期をもたらした。しかし、1563年臼杵(うすき)の丹生島(にうじま)城に移り、府内に長子義統(よしむね)を置いて二頭政治となり、78年(天正6)薩摩(さつま)の島津氏と日向(ひゅうが)耳川(みみかわ)で合戦して大敗した。これ以後家臣団の分裂、動揺が激化し、86年島津勢が豊後に進攻するに及んで、宗麟自ら大坂城に赴き豊臣(とよとみ)秀吉の救援を求めた。翌87年秀吉の九州平定が行われ、その所領は義統に豊後を、宗麟に日向を与える旨伝えられた。しかし宗麟はこれを辞退し、同年5月津久見(つくみ)で病死した。[芥川龍男]
『芥川龍男著『戦国史叢書 豊後大友氏』(1972・新人物往来社) ▽外山幹夫著『大友宗麟』(1975・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典の解説

大友宗麟 (おおともそうりん)

生年月日:1530年1月3日
戦国時代;安土桃山時代のキリシタン;大名
1587年没

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世界大百科事典内の大友宗麟の言及

【大友氏】より

…また領内で間別調査(一種の家屋調査)を行い間別銭を賦課した。その子大友宗麟(義鎮)は豊前,筑前,肥前,肥後を制圧,各守護となり,名目的ながら九州探題,長門・周防守護にも任じ,歴代で最大の支配地域をつくりあげ,城督制を採用して地方行政組織および軍事編制を改め,また博多,豊後府内の沖ノ浜などを南蛮船の寄港地とし,フィリピン等へ貿易船を送った。隠居後に受洗。…

【豊後国】より

…さらに16代政親と17代義右父子の対立へと内紛は続いた。戦国期になると大友二階崩れの変を経て,21代大友宗麟の時代に大友氏の全盛期を迎えた。宗麟は1559年(永禄2)までに豊後のほかに豊前,筑前,筑後,肥前,肥後の九州北半6ヵ国の守護職を得,九州探題職にも補せられた。…

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