日本歴史地名大系 「高野村」の解説
高野村
たかのむら
- 京都市:左京区
- 高野村
比叡山麓、高野川の谷口扇状地で、
高野の名は、「延喜式」神名帳に「出雲高野神社」がみられる。平安京遷都以前は
高野村
たかのむら
建治三年(一二七七)四月二八日の高井道円(時茂)譲状案(中条町役場所蔵文書)に「たかのゝいちハ」「たかのわた」がみえる。建治三年頃高野条は道円から孫義重へ譲られ、義重は高野を名のった。翌四年正月二二日「たかのゝうち松浦と新源次か分」が故入道の譲状に任せて義重から四郎茂長へ渡され和与となっている(「高井(高野)義重去状」三浦和田氏文書)。永仁六年(一二九八)一〇月二八日義重は娘千歳御前とすみやう(寿命)御前に各々高野条内の田・在家を譲った(「同譲状」同文書・「同譲状案」山形大学所蔵中条家文書)。元弘三年(一三三三)一二月尼教意(千歳)は当知行する高野郷内の田・在家の安堵を国守新田義貞に申請し、翌建武元年(一三三四)二月一四日に国宣を受けている(「尼教意代慶雲申状案并国宣案」三浦和田羽黒氏文書)。同五年閏七月七日教意は高野条の所領を子息羽黒義成に譲り、
高野村
たかのむら
紀ノ川の南、
伝説のとおり平安時代にはこの地に高野寺と称する寺院が建立されていたらしく、保延元年(一一三五)一二月二九日付の荒川庄田畠桑并在家等検注状案(続宝簡集)に「西五段高野寺三昧僧供料六段内」とある。
高野村
こうやむら
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
- 長崎県:松浦市
- 高野村
志佐村の南東に位置し、西部を志佐川が流れる。北東部に
高野村
こうやむら
那珂川右岸の
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
- 茨城県:勝田市
- 高野村
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
寛喜二年(一二三〇)一〇月二五日付の香屋村作田検注数注進状(新出厳島文書)や、嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)に記載された「香屋」がこの地のことかとも思われる。寛正五年(一四六四)正月一一日付で桂時景がその子広景に宛てた文書(「閥閲録」所収桂善左衛門家文書)に「かうやの中かうちみよう」とあり、この領地のことで異議があれば毛利殿の批判を得るということが記される。
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
- 大分県:日田市
- 高野村
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
- 青森県:五所川原市
- 高野村
「津軽歴代記類」に寛永一五年(一六三八)「高野村を切開く」とある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
- 新潟県:長岡市
- 高野村
東へは
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
高野村
こうやむら
- 山形県:天童市
- 高野村
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
- 福井県:敦賀市
- 高野村
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では
高野村
こうやむら
- 東京都:足立区
- 高野村
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
武儀川左岸に位置し、南西の対岸は
高野村
こうやむら
高野村
こうのむら
- 兵庫県:赤穂市
- 高野村
高野村
こうやむら
- 千葉県:八日市場市
- 高野村
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
- 山形県:上山市
- 高野村
蔵王川下流域にあり、北西は
高野村
たかのむら
高野村
たかのむら
高野村
こうやむら
高野村
たかののむら
高野村
こうのむら
高野村
こうやむら
高野村
たかのむら
- 千葉県:銚子市
- 高野村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報