愛媛県南西部の市。2005年8月旧宇和島市と津島(つしま),三間(みま),吉田(よしだ)の3町が合体して成立した。人口8万4210(2010)。
宇和島市中部の旧市。宇和海のリアス海岸の湾頭にある。1921年市制。人口6万2126(2000)。南予の政治・経済・文化の中心地であり,特に商業機能が卓越する。1615年(元和1)伊達秀宗が入封して以来,伊達氏10万石の城下町として栄えた。市街は分離丘陵に立地する宇和島城を中心に展開し,東・南方の旧市街は扇状地上に,北・西方の新市街は旧干拓地上に立地する。大正年間から第2次世界大戦前までは製糸工業が盛んであったが,現在は造船,木工,食品加工などが発達する。1882年大阪への定期航路が開かれたが,陸上交通の整備は遅れ,近郊の町村との陸路が県道として改修されたのは明治末年以降,予讃本線(現,JR予讃線)の開通は1945年であった。市街北部に和霊(われい)神社,南部に天赦(てんしや)園(名),隣接して藩主の遺品を陳列する伊達博物館などがある。また和霊神社の7月の大祭には,闘牛,八鹿踊,牛鬼などが催される。
執筆者:篠原 重則
伊予国宇和郡の城下町。中世には板島(いたじま)と称され,元和初年に宇和島と改称された。1575年(天正3),城主西園寺宣久が板島丸串城を居城とし,辰野川,神田(じんでん)川の囲む地域に小城下町があった。
天正・文禄年間(1573-96)宇和郡の領主戸田勝隆の後,文禄・慶長年間(1592-1615)の藤堂高虎,富田信高の時代に丸串城が本格的に築城され,城下町もほぼ完成した。1615年伊達政宗の庶長子秀宗が入部し,寛永年間(1624-44)にかけてさらに整備が進められた。寛文年間(1661-73)には,2代宗利によって宇和島城は大改修された。宇和島城は平山城で,平面は五角形であり,2辺は海に接し,3辺は海水を導入した堀で囲まれていた。家中町は城内の丸之内のほか,城郭の東・南部に,堀端通,広小路通,中ノ町,鎌原(かんばら)町,賀古町,大石町,笹町,大榎(おえのき)通,桜町,富沢町,御徒町などがあった。町人町は本来17町であり,本町・裏町が1~5丁目,袋町1・2丁目,竪新町,横新町,樽屋町,大工町,佐伯町であった。町人町には町年寄,各丁ごとに丁頭が置かれた。近世前期から町域は辰野川,神田川を越えて,毛山村,須賀浦(藤江浦)に下士・庶民混住の町が形成された。城下南部の薬研堀,元結掛(もつといぎ),山際,神田川原通,東部の一宮下(いつくした)町,竜華前通,北町,北部の竜光院前通,北西部の向新町(むかいじんまち),恵美須町,船大工町,須賀通などがそれである。元禄年間(1688-1704)から幕末にかけて,宇和島湾内には須賀浦,樺崎,松崎,富包,日振,兼助,岡村などの新田が造成された。須賀浦の御舟手は藩船の港であり,宇和島湾口の樺崎には灯台があった。宇和島は伊達氏の代の城下町として繁栄し,同時に宇和郡の海上・陸上交通の要地でもあった。上方方面への国産物(干鰯(ほしか),木蠟,和紙など)の輸出は海路をとった。陸上では,城下の南に通じる来村(くのむら)街道,北は吉田・大洲両藩に通ずる街道が栄えた。
執筆者:三好 昌文
宇和島市南部の旧町。旧北宇和郡所属。人口1万3863(2000)。旧宇和島市の南に位置し,西は宇和海南部に面してリアス海岸となっている。東は高知県に接する。三方を山に囲まれ,町域北端の鬼ヶ城山(1151m)に発して宇和海に注ぐ岩松川などの河川沿いに低地がある。一帯は津島郷と呼ばれ,中世,岩松の天ヶ森城に拠ってあたりを支配した越智氏は,津島殿と称された。江戸時代,宇和島藩の地方(じかた)支配の区分では津島組であった。岩松川河口左岸にある岩松はこの地域の物資集散地で,河港集落である。同河口右岸の近家(ちかいえ)では江戸時代に塩田が開かれ,明治期まで稼業された。農林業,漁業が中心で,かんきつ類の栽培や北灘湾内でのハマチ,真珠の養殖が行われる。海岸の一部と竹ヶ島などの島々は足摺宇和海国立公園に含まれる。岩松川河口付近は大ウナギ(アカウナギ)の生息地として知られ,上流には横吹渓谷があり,馬の淵温泉がある。町内を南北に国道56号線が通じる。
宇和島市北東部の旧町。旧北宇和郡所属。人口6651(2000)。北西の歯長峠に発して東流する三間川の流域にあり,周囲を山に囲まれる。三間川沿いの三間盆地は肥沃で,気候も温暖多雨である。盆地中央の宮野下は,大三島より勧請されて一帯の惣鎮守として信仰された三島神社の鳥居前にあり,江戸時代には吉田藩領の在郷町として栄えた。農業を基幹産業とし,米は〈三間米〉として知られ,ほかに酪農,養豚,養鶏,タマネギ栽培などが行われる。戸雁(とがり)に四国八十八ヵ所41番札所の竜光寺,則(すなわち)に42番札所の仏木(ぶつもく)寺がある。土居中に鎮座する清良(きよよし)神社は,戦国時代末期の当地の土豪で大森城に拠った土居清良をまつる。三島神社の神官土居水也の記したとされる,清良の一代を中心とした軍記《清良記(せいりようき)》は農書としても著名。曾根の天満神社で9月1日に催される花踊は,土佐の長宗我部氏に滅ぼされた歯長城主の霊を慰める踊りと伝える。JR予土線が通じる。
宇和島市北西部の旧町。旧北宇和郡所属。人口1万3001(2000)。北には高森山(635m)など法花津(ほけづ)連峰がつらなり,西はリアス海岸で宇和海に面し,宇和島湾に大良(おおら)半島が突き出ている。法花津湾北岸の法花津には,戦国期,西園寺氏の麾下(きか)にあって一帯を支配し,〈法花津殿〉と称された清原氏の本城があった。宇和島湾奥,立間(たちま)川の三角州上にある中心集落の吉田は,1657年(明暦3)伊達宗純が宇和島藩から3万石を分知されてのち,吉田藩陣屋町として発展したところ。東小路,西小路,魚棚などの地名や町並みに陣屋町のおもかげを残す。近世にはイワシ漁が盛んであったが,現在はハマチ,真珠などの養殖が進められる。農業は〈立間ミカン〉で知られるミカン栽培が主力。東小路にある安藤神社は,1793年(寛政5)吉田藩領で武左衛門一揆が起こった際,その責を負って切腹した家老安藤継明をまつる。立間の大乗寺は藩主伊達氏の菩提寺で,地蔵堂には,干ばつの際,田に水を引いたという伝説のある水引地蔵を安置する。町内をJR予讃線と国道56号線が縦断する。
執筆者:上田 雅子
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愛媛県南部、宇和海に臨む市。1921年(大正10)宇和島町と八幡(やわた)村が合併して市制施行。1934年(昭和9)九島村、1955年(昭和30)高光村、三浦村、1957年来村(くのむら)、1974年宇和海村を編入。2005年(平成17)吉田、三間(みま)、津島の3町を合併。近世初頭までは板島(いたじま)とよばれた。関ヶ原の戦功により藤堂高虎(とうどうたかとら)が伊予半国20万石に封じられて板島丸串(まるぐし)城を修築、1615年(元和1)に伊達秀宗(だてひでむね)が宇和10万石で入り、まもなく宇和島と改称した。以後伊達氏宇和島藩の城下町となった。宇和島湾奥のわずかな低地と小丘陵をもとに埋立てによる城下町の建設は、第二次世界大戦前まで市街地の骨格をなし、戦災復興によって新しい都市づくりが行われた。吉田地区は宇和島藩から分かれた吉田藩が置かれた地で、武家屋敷や往時の町並みを再現した「国安(くにやす)の郷(さと)」がつくられている。
宇和島駅はJR予讃(よさん)線の終着駅で、予土線と連絡する(路線としては北宇和島駅で接続)。出身者大和田建樹(たけき)の「鉄道唱歌」の碑が駅前にある。国道56号、320号、378号が通り、県内南部や宇和海離島などとの海陸交通の中心となっている。伊達氏、宇和島藩の歴史、文献を収蔵する伊達博物館があり、史跡も多い。明治以降、製糸をはじめ繊維工業の立地をみたが、戦後は食品加工、木工家具、造船業などが盛んとなった。商業が発展し、四国西南地域を市場としている。三間地区は米どころで、中山池など農業用溜池が多い。宇和海には藤原純友(すみとも)の遺跡をもつ日振島(ひぶりじま)がある。離島や津島地区ではハマチ養殖をはじめ漁業が盛んである。とくに真珠生産は全国的に有名である。国指定重要文化財として宇和島城天守、国指定名勝として天赦(てんしゃ)園があり、伊予神楽(かぐら)は国指定重要無形民俗文化財。市立歴史資料館(旧、宇和島警察署)は国の登録有形文化財。闘牛も知られている。和霊神社の大祭は「うわじま牛鬼まつり」としてにぎわう。三間地区には四国霊場第41番札所龍光寺、第42番札所仏木(ぶつもく)寺がある。また、津島地区の南楽園は四国最大の日本庭園として知られる。面積468.19平方キロメートル、人口7万0809(2020)。
[横山昭市]
『『宇和島市誌』全2巻(2005・宇和島市)』
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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