日本歴史地名大系 「長柄庄」の解説
長柄庄
ながらのしよう
興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の山辺郡に「長柄庄十七町卅五歩」とある。不輸免田四町五段大の内訳と条里(括弧内は坪数)は、内蔵寮田一町が一二条三里(一)、小一条院田一町が一三条五里(一)、春日社神戸田二町五段大が一三条四里(三)、一四条四里(三)。公田畠一二町四反一五五歩の条里は一一条四里(一)、一二条三里(二)・四里(二)、一三条四里(一〇)・五里(一四)、一四条五里(六)・六里(二)である。以上によると長柄庄は現長柄町とその周辺の
延久以後については応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)の山辺郡に「大乗院方 長柄庄六十九町五段二段切、同庄内備前領一町七段」、「大乗院雑事記」文明六年(一四七四)九月九日条に「長柄庄事、当門跡領分也、長柄ハ十市弓矢者也」とあり、興福寺大乗院領となっている。
長柄庄
ながらのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報