名柄村(読み)ながらむら

日本歴史地名大系 「名柄村」の解説

名柄村
ながらむら

[現在地名]御所市大字名柄・東名柄ひがしながら

寺田てらだ村、大井田おいだ村の西方水越みずこし川の扇状地に立地。南北に通ずる名柄街道と、東西に走る水越街道との交点に開けた街村で、金剛山登山口の宿場町として繁栄した。

「日本書紀」神武即位前紀己未年二月二〇日条にみえる臍見長柄丘岬ほそみのながらのおかざきと伝え(書紀集解)、同天武紀九年九月九日条には長柄杜ながらのもりを記す。式内長柄神社が鎮座し、「姓氏録」大和国神別には「長柄首」の名を載せている。

名柄村
ながらむら

[現在地名]宇検村名柄

部連ぶれん村の南西に位置し、集落焼内やきうち湾の深い入江に臨む。屋喜内やきうち間切宇検うきえん方のうち。「おもろさうし」巻一二に「名柄仁屋 比屋根子が 羽 差し遣り 奇せ 差し遣り」と謡われている。嘉靖三五年(一五五六)八月一一日の琉球辞令書(名柄文書)に「屋けうちまきりのなから」とみえ、首里王府は焼内間切の名柄の「おきて」(掟職)に、名音のん(現大和村)の掟職を二ヵ年勤めた「たらつゐはん」を任じている。「たらつゐはん」は「たらつ」が人名で、「ゐはん」は近世の村方役人である居番にあたるとすれば、琉球時代にすでに設置されていた役職になる。

名柄村
ながらむら

[現在地名]尾鷲市名柄町

輪内わうち湾の北西部、小脇こわき村の北西にある。慶長検地高目録(和歌山県間藤氏蔵)に「名柄村」と記され、長原・永柄・長柄とも書かれる。江戸時代初期に木本組に属する。天保一〇年(一八三九)頃家数二二(紀伊続風土記)。江戸時代の公用文書村継のうち南より八鬼やき山を越え尾鷲まで運ぶのは当村に指定され、村継人足として村の若者が使用された。そのため農林業の働き手がなく村は衰微した。天保の飢饉に村はますます困窮し、村の入会山を売り、田畑を手放す村民も現れた。この状況を憂えた庄屋本山幸七は、藩より一三〇両を一〇ヵ年無利息で借受け、村民の田畑を買戻すなどして村を再建した(尾鷲市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報