長河庄(読み)なががわのしよう

日本歴史地名大系 「長河庄」の解説

長河庄
なががわのしよう

「康平記」の康平五年(一〇六二)正月一三日条の、関白(藤原頼通)の「春日詣定」のうちに「(正月)五日夕、秣蒭、長河」とある点からみると、この時期すでに摂関家領であったことがうかがえる。この春日社参では秣役をつとめたものである。次に「春日詣部類記」仁平元年(一一五一)の「左大臣(藤原頼長)春日詣御祈料米注文等事」に「長河御庄三十石三斗八升」とある。また建久八年(一一九七)の「関白(藤原基通)春日詣雑事定文」に「官掌召使御随身、長河庄」とある。以上について、建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)によって長河庄の相承次第を考えてみると、宇治殿(頼通)―京極大殿(師実)―知足院殿(忠実)―高陽院(藤原泰子)―法性寺殿(忠通)―宇治左府(頼長)、保元の乱後、再び法性寺殿―六条殿(基実)普賢寺殿(基通)―猪隈殿(近衛家実)―大殿(兼経)となろう。摂関家領は鎌倉期では五摂家に分れた関係で、相承次第のなかで長河庄は近衛家領となり、以後も同家領として存続した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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