日本歴史地名大系 「長深城跡」の解説
長深城跡
ながふけじようあと
員弁川南岸の丘陵上に築かれた、中世の平山城。暦応年間(一三三八―四二)に富永筑後守富春が築城し、代々富永氏の居城であったと伝えられる(五鈴遺響、員弁雑志)。富永氏は室町幕府の奉公衆となった有力国人であるが、奉公衆としても幾つかの庶流が分れていたようである。康正二年(一四五六)造内裏段銭并国役引付(神宮文庫蔵)には、富永弥六・弥五郎の名がみえ、富永弥五郎は伊勢国所々の段銭を納めている。また、室町幕府奉公衆の名簿である諸種の番帳には、富永氏の一族が各々二―三名記載されるが、そのなかに富永筑後入道の名があり(永享以来御番帳、文安年中御番帳)、別に醍醐寺文書の伊勢国十ケ所人数注文には「とミなかちくこ」の名がみえ、この筑後守の官途を有する系統が長深城主ではないかと考えられる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報