日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川英信流」の意味・わかりやすい解説
長谷川英信流
はせがわえいしんりゅう
居合術の一流派、流祖は長谷川主税介英信(ちからのすけひでのぶ)(1602?―1719)。英信の伝は明らかではないが、産は紀州、あるいは讃岐(さぬき)と伝え、通称は内蔵之助(くらのすけ)ともいった。武術諸芸に優れ、戸田長門(とだながと)流の棒術(5代)をはじめ、槍術(そうじゅつ)、柔術を修め、初め紀州藩に任えたが、のち浪人して江戸に出て、林崎(はやしざき)流居合および無双直伝流和儀(むそうじきしんりゅうやわらぎ)を万野団右衛門信貞(まんのだんえもんのぶさだ)に学んだ。やがて居合の精妙をもって始祖以来の達人と称せられ、新工夫を加えて無双直信英信(むそうじきしんえいしん)流と改めたという。英信の門人に荒井勢哲清信(あらいせいてつきよのぶ)、その門人に土佐藩の林六大夫守政(はやしろくだゆうもりまさ)(1663―1732)が出た。守政は山内家の御料理人頭(おりょうりにんがしら)で、新小姓格(しんこしょうかく)であったが、160石の馬廻(うままわり)に昇格し、さらに故実礼節方(こじつれいせつがた)の指南役に出世した。以来、土佐では英信流が盛んに行われ、大正末期に至って大江正路(おおえまさみち)の主張で大森流居合と統一し、山川久蔵(きゅうぞう)、細川義昌(よしまさ)らを経て、昭和初期に警視庁剣道師範中山博道(ひろみち)に伝えられ、一躍、居合道の有力流派となった。
[渡邉一郎]